第五十九話 本 音 (ほんね) Ⅱ
不意に聞こえた何かをたたく音に、はたと後方を振り返る。
目に入ったのは樹にもたれ掛かるようにして立つシェサナンドで、その立ち姿から、手の甲を使って幹を打ったのも彼であることが見て取れた。
「じゃれ合いはもう済んだか?」
「お、お前っ……! シェサナンド! どうしてここにいやがる!!」
不機嫌そうな口ぶりで言いつつ傍らを通り過ぎていくシェサナンドに、アシュヴァルは指先を突き付けつつ声を荒らげる。
だが、シェサナンドは取り合うことなく川べりに膝を突き、そのまま流れに頭を突っ込ませた。
ぶるぶると頭を震わせて水を吹き飛ばしたのち、背を向けたまま口を開く。
「俺にだって水を使う権利くらいある」
「そりゃそうだけどよ、里ん中にだって井戸くらいあるだろうが! わざわざここまで——」
「どこを使おうと俺の自由だろ。お前に許可を取らなくちゃいけないなんて聞いてない」
アシュヴァルの言葉を切って捨てると、シェサナンドは川面を見下ろしたまま吐き捨てるように呟いた。
「……里を捨てたお前なんかに」
顔を洗い終えた彼は、川辺に膝を突いたままアシュヴァルに一瞥を投げる。
「兄貴から聞いたよ。お前さ、里長に用があって帰ってきたんだって?」
「それがどうしたよ」
即答するアシュヴァルを横目に眺め、シェサナンドは左右の拳を握り締める。
固く食い縛った歯の隙間からは、きしみ音とともに荒い息遣いが漏れ聞こえていた。
「そいつのため——なのか……?」
立ち上がったシェサナンドはアシュヴァルを見据えつつ、しゃくり上げた顎先で少年を示してみせた。
そいつ——その顎の指し示す先が自身であることを理解すれば、向けられる激情的な視線の奥に彼の瞳に、怒りやいら立ちとはまったく異なる情緒がうかがえる。
それがいったい何であるか、はっきりとつかみ切れはしないものの、多情多感なシェサナンドの中でも、とりわけ感傷的な部分であるような気がした。
「ああ。そうだ」
アシュヴァルが断言するように答えると、シェサナンドは何も言わずに後ろを向ける。
何事もなかったかのように去っていこうとする彼の背に、アシュヴァルはいら立ったような口ぶりで呼び掛けた。
「おい!! だからそれがどうしたってんだ!! ——待てって!!」
去っていく後ろ姿を追ってアシュヴァルが一歩踏み出そうとしたとき、不意にシェサナンドが立ち止まる。
おもむろに振り返った彼は、手にしていた何かを下手投げに放った。
放物線を描いて飛ぶ何かを伸ばした両手で受け止めたアシュヴァルは、手の中に収まった小さなそれを見詰めて呟く。
「こいつは……」
「懐かしいだろ」
かすかに口元に笑みを浮かべて呟き、シェサナンドはそのまま里の方向へと去っていった。
少年も首を伸ばし、アシュヴァルの手の中をのぞき込む。
そこにあるのは磁器でできた小瓶だった。
「これは……何?」
「こいつはよ——」
感慨深げに微笑みを浮かべ、指先で小さな瓶の蓋をつまみ上げる。
「——薬だよ。この辺りでよく取れる壺草っていう薬草をすりつぶした塗り薬さ。がきの頃からよ、けがしたらいつでもこいつだった。においは昔っからあんまり得意じゃねえんだけど……よく効くんだ、これが」
瓶の口に鼻先を寄せたアシュヴァルは、「うえ」とうめき声を上げながら目と口を半開きにする。
「懐かしいな。俺もあいつもこれの世話にならねえ日はなかったぜ」
懲りずにもう一度薬のにおいを嗅ぎ、アシュヴァルは再び表情をゆがめて呟いた。
「やっぱ慣れねえや」
広場に戻った二人が見たのは、めいめい鍛錬を行う彪人たちの姿だった。
筋力の強化のための反復運動を行う者、二人一組で武術の型の実践を行う者、手合わせの続きとばかりに乱取り稽古をする者など、さまざまな鍛錬に励む光景が広場のあちらこちら見られた。
バグワントはそんな者たちを見て回り、時折立ち止まっては自ら手本を示してみせていた。
アシュヴァルが戻ったことに気付いた彪人たちは、数人で一斉に取り囲んで無理やりその腕を取る。
抵抗むなしく連れ去られてしまったアシュヴァルは、求められる手合わせの要求に仕方なく応じていた。
一人残された少年が所在なげに辺りを見回していると、三人組の一人であるヌダールが声を掛けてくる。
「ちっこいの!! お前も一緒にどうだ?」
「え……? じ、自分……!?」
エッシュとヴァルンの二人を伴ってやって来た彼の第一声は、稽古への参加を持ちかけるそんな言葉だった。
突然の提案に面食らい、自身の顔を指さしながら答える。
「そうだよ、お前お前!! せっかくだから俺らで鍛えてやるよ!!」
「アシュヴァルと一緒だったんなら少しくらいはできるんだろ!?」
「俺もそれがいいと思ってた!!」
「じゃあ——うん。一緒にいいかな……?」
渋々といった様子で手合わせの要望に応じるアシュヴァルを横目に眺めつつ悩んだ結果、少年は彼らの稽古に加えてもらうことにした。
ヌダールが最初に用意してくれたのは、彪人たちが身体を鍛えるために使う木製の道具だった。
先端が太く、持ち手部分に向かって細くなるその道具は、元々は農業用の杵だったらしいが、今では専ら稽古用として使われているという。
ヌダールは片手で一本ずつ持ち上げたり、身体に沿わせて振り回すなど、軽々と扱ってみせるが、少年には持ち上げることすらままならない。
非力なりに両手で懸命に道具を抱え上げようとする様を見たヌダールたち三人は顔を見合わせて大笑いするが、不思議と莫迦にされているようには感じなかった。
振り返ってみれば、アシュヴァルに対しての振る舞いにも、決して彼を笑い者にしたり、あざ笑ったりする意味合いは含まれていなかったように思える。
何事も能天気に笑い飛ばす彼らに——そしてどこまでも陽気で大様な彪人という種に、少年は少なからず好意にも似た感情を抱き始めていた。