第五十八話 本 音 (ほんね) Ⅰ
アシュヴァルが向かったのは、田畑の脇を抜けた先にある、澄んだ水の流れる沢だった。
川べりに膝を突いた彼は、両手ですくい上げた水で顔を洗う。
腫れ上がって熱を持った部分を冷ますように、何度も繰り返し水をすくっては、自らの顔へとたたき付けていた。
「あ——」
口を開いて名を呼ぼうと試みるが、掛けるべき言葉の見つからない少年には、その背中をじっと見詰め続けることしかできない。
背丈ではるかに勝り、体格にも優れた同胞たちに囲まれた際に見せた表情、そんな彼らとの短いやり取りの中に、アシュヴァルがかねてから故郷のことを口にしたがらなかった理由の一端を垣間見た気がしたからだ。
大きく息を吸い込んで深呼吸をし、意を決して一歩を踏み出す。
いつもよりも小さく見えるその背中に、ささやくような声で呼び掛ける。
「そ、その……アシュヴァル」
手を止めたアシュヴァルの指の隙間から、すくい上げた沢の水がこぼれ落ちる。
背を向けたまま掌を握り締めると、水はしぶきとなって飛び散った。
「見ただろ。これが本当の俺だ」
「本当の……?」
「ああ、そうだよ。本当の俺は、お前が思っているみたいに強くなんてねえ。ご覧の通りさ、このちっこくて弱っちいのが本当の俺なんだ」
小刻みに肩を震わせ、喉から絞り出すような声で言うと、アシュヴァルは川面に向かって握り拳を打ち付ける。
「幻滅させたか? 失望させたか? ——がっかり……したよな」
アシュヴァルは川面を見下ろすようにうつむき、そのまま黙り込んでしまう。
少年もまた、その場に立ち尽くしたまま彼の背を見詰め続けた。
誰よりも強いと信じて疑わなかったアシュヴァルが、鉱山の皆からも一目置かれていたアシュヴァルが、まさかそんな苦悩を抱えているなどとは思いも寄らなかった。
半年という短くない時間を一緒に過ごしてきたにもかかわらず、なぜそこに気付くことができなかったのだろうかと考えを巡らせる。
そして、彼の抱く苦しみをますます大きなものにしてしまっていたのが他でもない自身なのではないかと思い至れば、深い後悔の念に打たれずにはいられない。
「アシュヴァル……!! そ、その——自分は……自分のことばっかりで、本当の君を見ようとしてなかったんだ……!」
強いアシュヴァルに甘えていた。
何も持たないが故に身勝手な理想と期待を押し付け、無神経な言葉と行動でその在り方を縛ってしまっていたのは誰でもない自分自身だ。
つい先ほどもそうだ。
負けてほしくないと願ったのも、結局のところは己のわがままでしかない。
それにもかかわらず、彼は期待に応えて力を振り絞り、願いをかなえてくれた。
思い描く理想の——強いアシュヴァルでいてくれたのだ。
「アシュヴァルはアシュヴァルだよ。あの日からなんにも変わらない。大きいとか小さいとか、強いとか弱いとかじゃなくて、優しくて格好よくて——真っすぐな君は自分の憧れなんだ。それが重く感じられたなら——その、ごめん。でも自分はやっぱり君みたいになりたくて……」
「お前——」
呟いたきり、アシュヴァルは再び黙り込んでしまう。
蕭々《しょうしょう》と流れる瀬音だけが聞こえる中、彼は静かに立ち上がった。
「今までよ、ずっとお前の前で格好つけてたし、強えんだぞってふりもしてた。あと……あれだ。お前がきらきらした目で見上げてくるのがうれしかったんだ。確かにお前の言うように、期待に応えなくちゃならねえって気負ってた部分もある。でもな、一等面白くねえのは——」
言って片手を腰に添え、もう一方の手で首筋をさする。
再び川面に視線を落とした彼は、自らに言い聞かせるような口ぶりで言葉を続けた。
「なんていうかな、お前の考える負担だとか無理だとか……そういうのじゃなくてよ。うまく言えねえけど、うそついてる自分に対するやましさ——っていうのかな、多分そういうやつだったんだろうな。……でもよ、なんにも知らねえお前が少しずつ強くなってく、変わってくとこを見てさ、いつでもお前の一歩先を歩いていられる男でいてえなって本気で思った。変わらねえ俺じゃなくてよ、変わっていく俺でいてえって思ったんだ。そんで今日だ。俺の負けでいいからさっさと済ませちまおう、シェサナンドの奴もそれで少しは気が晴れんじゃねえかって考えてたんだけどよ。けど……お前が負けるなって言ってくれたとき、俺もほんとは負けたくねえんだなってわかったんだ。どんだけ不格好でも、情けなくても、最後まで踏ん張ってみようって思えた。だからよ、こいつはお前のためじゃねえ。お前が俺にくれた——本物の強さの切れっ端みてえなもんだ」
いったん言葉を区切って小さく嘆息すると、振り返ったアシュヴァルはいたずらっぽい笑みを浮かべて言い添えた。
「——ま、結局引き分けだったみてえだけど」
「う、ううん……!! 格好よかった!! すごく強くて……それで、あ——」
口にしかけた言葉を、とっさのところでのみ込む。
それがまた無理を強いる理由になってしまうのではないかと考えると、軽い気持ちで口にしてはならないような気がしたからだ。
「そりゃどうも」
気にした様子もなく照れくさそうな笑顔を浮かべ、アシュヴァルは少年の頭に手を伸ばした。