第五十七話 練 武 (れんぶ) Ⅱ
「始め!!」
少年の抱く不安など関係なく、バグワントの口から稽古の始まりが告げられる。
開始と同時に、シェサナンドは吼え声を上げて激しく攻め立てるが、対するアシュヴァルはかけらも抵抗の意志を見せなかった。
されるがままに腕をつかまれた彼は、シェサナンドによって瞬く間に大地にねじ伏せられてしまう。
動きを封じたアシュヴァルを力ずくで強引に組み敷くと、シェサナンドはその腕を取って肩関節をきつく締め上げた。
加減する様子なく関節を極め続けるシェサナンドに、アシュヴァルの顔はみるみる苦悶にゆがんでいく。
「と、止め——」
助けを求めるようにバグワントに視線を投げるが、彼の口から稽古の終了が告げられる先触れは見られなかった。
怒りに身を任せたシェサナンドも、一向に攻め手を休める気配を見せない。
このままではアシュヴァルの腕が引きちぎられてしまう、最悪の状況を想像しかけた瞬間、図らずも少年は立ち上がって叫び声をあげていた。
「アシュヴァルっ!!」
突として放たれた大声の主を、周囲の彪人たちは不思議そうな顔で見詰める。
だが周囲の皆以上に大きな驚きを見せたのは、輪の中央でシェサナンドと組み合っていたアシュヴァル本人だった。
「負けないで!! アシュヴァル——!!」
あらん限りの声を絞り、もう一度その名を呼ぶ。
声に気を取られて力が緩んだのだろうか、アシュヴァルは身体を発条のように跳ね上げてシェサナンドの拘束を解き放つ。
続けてあおむけになったシェサナンドの身体を組み伏せ返すと、全身の力を使ってその首を締め上げた。
「ぐ……が——お、お前——」
アシュヴァルの締め技が完全に極まる。
全体重を乗せて伸しかかる彼を、体格で有利なはずのシェサナンドは押し返せない。
何度も繰り返し身を跳ね上げて拘束を解こうとするが、そのたびにアシュヴァルも身体を強く密着させる形で押し付け続けた。
首を締め上げられたシェサナンドは徐々に力を失っていき、視線が宙を泳ぎ始める。
勝敗が決したかに思えたとき、シェサナンドは残った力を振り絞るようにして振り上げた足で、アシュヴァルの横っ面を蹴り付けた。
「——ん……があっ!!」
「ってえ……!!」
それでも力を緩めようとしないアシュヴァルの頭部に、シェサナンドは何度も繰り返し足裏をたたき付ける。
「お前……!! お前っ!!」
「ぐ——」
顔面に蹴りの直撃を受け、アシュヴァルの拘束がにわかに緩む。
シェサナンドは生じた一瞬の隙を見逃さず、アシュヴァルの腕を払いのけるようにして身体の下から抜け出した。
肩を大きく上下させて肺腑に空気を取り込むと、シェサナンドは「はん」と鼻を鳴らして立ち上がる。
両手で顔面を抑えて転がるアシュヴァルを見下ろし、吐き捨てでもするかのように言った。
「なんだよ、その程度——」
言い終える寸前、得意げな笑みを浮かべたシェサナンドの顔が苦痛にゆがんだ。
跳ね起きつつ放たれたアシュヴァルの拳がその頬を捉えたからだ。
シェサナンドは拳の直撃を受けて後方へ大きくのけ反ったが、倒れる直前で踏ん張りを利かせ、どうにか転倒をこらえていた。
「ア、アシュヴァル!! お前、やってくれたな——!!」
「シェサナンド……!! てめえこそ人様の顔をなんだと思ってやがるっ!!」
口元から垂れる血を手の甲で拭いながら言うシェサナンドに対し、アシュヴァルも親指で鼻血を払いつつにらみ返す。
次いで二人は、示し合わせでもしたかのように同時に大地を蹴った。
「うおおおお!!」
「おらあああ!!」
その後、立ち合いはまさに泥仕合といった様相を呈し始める。
技とも呼べない殴り合い蹴り合いの応酬を、周りを囲む彪人たちは大喜びではやし立てる。
いつ止めてくれるのかとすがるような目でバグワントを見詰めるも、彼はあきれたように二人を眺めるばかりでいつまで経っても「やめ」の号令を口にしようとはしない。
目の前で行われているのは、もはや稽古などではなかった。
喧嘩としか呼べないようなその光景を前に、少年は居ても立ってもいられない気持ちを抱えて見守り続けることしかできなかった。
アシュヴァルとシェサナンドの手合わせは、最終的に双方の根比べとなった。
両者一歩も引くことなく続いた取っ組み合いは、十五分を過ぎても決着を見ない。
最後の最後に、腕を交差させる形で互いの頬を打ち合った二人は、まったくの同時に昏倒したのだった。
「アシュヴァル!!」
彪人たちの間を擦り抜けて輪の中央へ踏み入り、膝を突いた少年はあおむけの身体を揺する。
「ど、どっちが勝った……?」
すぐに意識を取り戻した彼が最初に口にしたのは、周囲を見回しながらのそんな疑問のひと言だった。
倒れたのが同時であったことを伝えると、アシュヴァルは天を仰いだまま満足そうに呟いた。
「……てことは負けちゃあいねえよな」
立ち上がって輪の外へと歩き出そうとする彼だったが、当然ながらその足取りは重い。
倒れそうになる身体をとっさに受け止めるが、支え切れずにアシュヴァルもろともその場に崩れ落ちてしまう。
何者かの気配を感じて頭上を見上げる少年の目に映ったのは、ヌダールら三人組の姿だった。
「やるじゃねえか!!」
「根性見せたな!!」
「まあまあだったぜ!!」
労いの言葉を口にしつつ、三人は腰を突いた少年とアシュヴァルに向かって手を差し伸ばした。
「次の相手は俺だからな」
腰を落として肩を貸そうとするヌダールだったが、アシュヴァルは差し出された手を雑な手つきで押し返して立ち上がる。
喝采を上げる彪人たちに背を向け、おぼつかない足取りで歩き出す彼に続き、少年もいまだ沸き立つ広場を後にした。