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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第一章  彪 人(とらびと) 篇   第三節 「山河を越えて」
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第五十六話  練 武 (れんぶ) Ⅰ

 バグワントの指示の下、彪人たちの稽古が始まる。

 手順はごく単純であり、名を呼ばれた二名が円座の中央まで進み出て、手合わせを行うというものだった。

 しかし、稽古といっても内容は決して手ぬるいものではない。

 屈強な肉体を持つ彪人たちが激しくぶつかり合う様は、稽古と知らぬ者が目の当たりに擦れば、命を懸けた戦いにも見えかねないだろう。

 互いの四肢や首根をつかみ上げ、大地にたたき付けるように投げ倒し、組み伏せて押さえ込むのが彪人たちの戦い方だ。

 さらに動きを封じた相手の頸部を呼吸ができなくなるまで絞め付け、確実に腕や足の関節を極める。

 一方の勝利を認めたバグワントが「やめ」の判定を下すまで立ち合いは続いた。


 ヌダール、エッシュ、ヴァルンの三人、シェサナンド、そして判定役を務めていたバグワントも任を一時譲って稽古に参加する。

 入れ代わり立ち代わり何度も相手を変え、彪人たちは手合わせを繰り返す。

 円座になった者たちは中央で組み合う二人を鼓舞するような声を上げ、周囲に集まった人々も盛んに声援を送り続ける。

 見事勝利を収めた者には喝采が送られ、負けた者にも健闘をたたえる声が飛んだ。


 広場に集まった彪人たちの中でも、ひときわ大きな声援を集めるのがバグワントだった。

 その力量は強者ぞろいの彪人たちの中でも群を抜いており、少年の目にも、彼に土を付けることのできる者は一人もいないかのように見えていた。


 ヌダールら三人を続けざまに打ち破ったバグワントの前に、新たな対戦相手が進み出る。

 おもむろに立ち上がって輪の中へと歩みを進めたのは、それまで退屈そうに稽古を眺めていた里長ラジャンだった。

 彼が稽古に参加するのがよほど珍しいのか、輪になった彪人たちは叫びにも似た声を上げ、広場の周囲に集まった人々も一段と大きな歓声を送る。

 とりわけ大きな衝撃を顔に表すのは、ラジャンの挑戦を受ける形になったバグワントだ。

 前方の彪人たちの背に隠れるようにして稽古を眺めていたアシュヴァルも、顔を上げ、息をのんで両者の手合わせの行方を見守った。


 広場の中央へと歩み出る里長ラジャン、総身に漂わせる迫力と同様に、身にまとう衣服も他の彪人たちとは大きく異なっている。

 腰布だけを巻き付けて上半身をさらした他の男たちと違い、彼が身に着けているのは豪奢な金色の刺繍の施された仕立てのよい丈長の上下だった。


 彪人たちの倣いなのだろう、ラジャンもまたバグワントに向かって前腕を突き出してみせる。

 応えてバグワントが前腕を突き出すと、二人は互いの腕を交差させるように触れ合わせた。

 それを合図に、手合わせの幕が切って落とされる。


 先に動いたのはバグワントだった。

 巨躯に似合わぬ俊敏でしなやかな動きで切り込むが、その手はラジャンには届かずむなしく空をつかむ。

 後方に一歩退いたラジャンは襟元を狙うバグワントの左手をわずかに上体をそらしてかわすと、続いて伸ばされた右手を左の手背ではじき上げる。

 相手の間合いの内側に踏み込み、右手の掌底で顎を突き上げたラジャンは、衝撃に目まいを起こすバグワントの懐に自らの身体を滑り込ませ、腕と肩を取って巨躯を背負い上げた。

 大地へとたたき付けられたバグワントの巨躯が大地を揺らす。


 瞬く間の決着だった。

 勝敗が決すると同時に、輪になった彪人たちの間から吼え声にも似た歓声が巻き起こる。

 周囲は再びラジャンの名を呼ぶ声で満たされる。

 輪の中央で目を閉じたラジャンは、しばし勝利の余韻に浸るようなそぶりを見せていたが、ややあって自らの居所である敷物の上へと戻っていった。


 シェサナンドから介抱を受けてバグワントが昏倒から目覚めると、彪人たちの声は彼の健闘をたたえるものへと変わる。

 立ち上がった彼は気つけとばかりに頭をぶるぶると振り、集まった人々に向かって口を開いた。


「皆もすでに知っていると思うが——」


 彼が話し始めると、辺りはにわかに静まり返る。

 場に集った皆の視線を集め、バグワントは言葉を続けた。


「——今日は懐かしい顔がある。そうだ!! アシュヴァルが帰ってきたぞ!!」


 瞬間、アシュヴァルがびくりと身体を強張らせる。

 苦々しげな表情を浮かべる彼だったが、固く歯を食い縛って立ち上がった。


「ア、アシュヴァル……」


 背に向かって呼び掛けるが、アシュヴァルは何も答えず輪の中央へと進み出る。

 まばらな歓声といくらか揶揄の色を含んだ声を受けながら輪の中央にたどり着くところを見届けたバグワントは、周囲の彪人たちを見回し、問うように声を上げた。


「アシュヴァルの相手は誰だ!!」


「俺!! 俺だ、俺がやる!!」


 真っ先に名乗りを上げるのは、先ほどの三人組のうちの一人だ。


「ヌダールか、いいだろう。前へ出ろ!」


「よっしゃあ!!」


 バグワントの許しを得るや、三人組の一人であるヌダールは頭上高く拳を突き上げる。

 残りの二人と拳を打ち合わせたヌダールが輪の中へと踏み出そうとしたそのとき、別の彪人がその脇を通り過ぎて広場の中央に進み出る。


「おい!! 何してんだよ、俺の出番だぞ!!」


 物言いをつけるヌダールに構うことなく中央まで進み出たのは、バグワントの弟であるシェサナンドだった。


「兄貴! 俺に! 俺にやらせてくれよ!!」


「駄目だ」


「なんでだよ! いいだろ!? 俺にはあるんだ、そいつと戦う資格が! 誰よりも!!」


 嘆願を一蹴され、シェサナンドは食い付かんばかりの勢いでバグワントに詰め寄る。

 だが、色よい反応が返ってこないとみるや、即座に頼み込む相手をヌダールへと変えた。


「ヌダール、代わってくれ! 俺にやらせてくれよ! 頼む!」


「ん-、ああ、いいぜ。今日のところはお前に譲ってやるよ」


 ヌダールは右手の掌を上に向け、肩をすくめて答える。

 すぐに気分を切り替えたのか、輪の中に戻って座り込む彼を、他の二人はからかうように拳で小突いていた。

 満足げな笑みを浮かべてバグワントを見上げ、シェサナンドは今一度念押しするように言う。


「これで文句ないだろ、兄貴。そいつの相手は俺だ!」


「アシュヴァル、お前はどうだ」


 弟の言葉を聞き流し、何も言わず黙するアシュヴァルに向かってバグワントは尋ねる。


「俺は別に誰でもいい。こっちはそんなに暇じゃねえんだ、早くしてくれると助かる」


 いかにも興味なさそうな応対に、シェサナンドの顔が憎々しげにゆがむ。

 刺すような目でアシュヴァルをにらみ付けると、血気に満ちた表情を浮かべた彼は、兄を見上げて催促するように言った。


「兄貴っ……!! 早く——早く始めてくれよ!!」


 誰よりもアシュヴァルの強さを信じる少年だったが、胸の内に不安の影が差すのを禁じ得ない。

 集落に足を踏み入れたときから、アシュヴァルの様子が自身の知る彼と大きく異なっているような気がしてならなかった。

 彼以上にたくましく鍛え上げられた体幹や、太く立派な手足を持つ同種たちの間で縮み上がってしまっているようにも見えれば、里長ラジャンの射貫くような視線を受けたときなどは小刻みに身を震わせてさえいた。

 今もいきり立つシェサナンドを前にしながら、その瞳からは戦意が完全に失われているようにも見える。

 

 そんなアシュヴァルに対し、周囲の彪人たちは変わらずはやし立てるような声を上げ、里長ラジャンは相変わらずの興味なさげな視線を送っていた。


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