第五十五話 郷 里 (きょうり) Ⅲ
久しぶりの帰郷と知ったからか、あるいは物珍しい道連れが一緒だからか、里の人々の視線は一様に道を進むアシュヴァルに注がれていた。
歩を進めながら周囲を見回せば、腰布のみをまとった男たちと違い、女たちは一枚布を胸元まで巻き上げたような衣服を身に着けている。
彼女らに手を引かれた、あるいは腕の中で眠るのは子供たちだろう。
住人の中には彼を認めて声を掛ける者たちもいたが、アシュヴァルは自らの名を呼ぶ声が聞こえていないかのように、じっと正面を向いたまま先へ先へと足を進めていた。
石造りの家々の合間の小路を山の頂に向かって上っていくと、開けた広場のような場所が見えてくる。
そこがバグワントの言っていた稽古の場なのだろう、広場にはすでに十数人の彪人たちが円座を組むようにして座っていた。
中には先ほど里の出入り口で声を掛けてきた、ヌダール、エッシュ、ヴァルンと呼ばれた三人組の姿もある。
「おい、こっち来いよ!! 」
「こっち、こっちだ!!」
「ここ、ここ!!」
アシュヴァルに気付いた彼らは、自らの隣を差し示しながらしきりに声を上げる。
立ち上がって大きく手を振る三人をちらりと一瞥したのち、アシュヴァルは彼らの招きに応じることなく輪の後方に腰を下ろした。
あぐらを組んで座る彼に倣い、少年もその隣に座り込む。
バグワントの様子をうかがえば、彼もまた自身らを見定めるような視線で見据えている。
所在を聞くことができなかった以上、里長と呼ばれる人物に直接尋ねる以外、ローカにたどり着く道はない。
一刻も早く彼女に会いたいと気ばかり焦るが、今は彼の提案を入れて里長が姿を現すのを待つほうが賢明と、自分自身に強く言い聞かせた。
バグワントは広場に集まった彪人たちにひと通り目を配ったのち、一箇所だけ輪の欠けている部分へと歩を進める。
彼は厚手の敷物が敷かれた部分を避けるように腰を下ろした。
少年は隣に座るアシュヴァルを横目に見るが、普段の堂々とした面影は完全に影を潜めている。
先ほど頬を張った際の意気はどこへやら、アシュヴァルは身を硬くしてうつむき込んでしまっている。
顔を伏せて足元に視線を落とす彼を前に、少年はさりげなく目をそらした。
輪になって腰を下ろす他の彪人たちに視線を移したところ、その中に先ほど激しい憤りを見せていたシェサナンドの姿を捉える。
彼は依然として不快感を隠そうともせず、いら立たしげな目でアシュヴァルのことをじっとにらみ付けていた。
直後のこと、辺りがにわかに活気づく。
空気がざわめき立ったかと思うと、円座になった彪人たちの視線がひと所に集中する。
見れば円の外側にも男女問わず多くの彪人たちが集まっており、彼ら彼女らの視線もまた、同じ方向に注がれている。
座った姿勢のまま背筋を伸ばし、少年も皆と同じ方向に視線を向ける。
彪人たちの合間から見えたのは、広場に向かって歩む一人の人物の姿だった。
「里長!! 里長ラジャン!!」
誰かが上げたひと声をきっかけに、辺りはその名を呼ぶ声に包まれる。
だが、広場に向かって歩を進める当の本人がうっとうしそうに手を払うと、声を上げていた彪人たちは即座に静まり返った。
立ち上がったバグワントがうやうやしい手ぶりで敷物を示せば、一同がラジャンと呼ぶ人物は気だるげなしぐさで腰を下ろす。
敷物の上に座るなり手にしていた剣をその場に放り出し、立てた膝の上に肘を乗せて頬杖を突くと、彼は物憂そうな視線で彪人たちの輪を睥睨した。
里長ラジャンの視線が、不意に輪の後方に腰を下ろしたアシュヴァルへと向けられる。
注がれる視線に気付いたのか、アシュヴァルはいかにも恐る恐るといった様子で伏せていた顔を上げた。
しかし、自らを見据えるラジャンと目が合った瞬間、彼ははじかれたようにうつむいてしまった。
「アシュヴァル——」
小刻みに震える様に気付いて気遣いの言葉を掛けようとした瞬間、少年が覚えたのは背筋にぞくりとしたものが駆け抜ける感覚だ。
身体が石と化してしまったかのように硬直して動かず、息を吸おうにも呼吸すらままならない。
どうにか目線だけで振り向いて認めたのは、自身に対して射すくめるような視線を投げる里長ラジャンの姿だった。
今まで感じたことのない迫力と威圧感を全身に浴び、恐怖と脅威とで押しつぶされそうになる。
生きた心地のしない数秒間を必死に耐え続け、ラジャンが興味を失ったかのように眼をそらしたことにより、ようやく呪縛から解き放たれる。
遅れてやってくる震えに身を委ねながら、少年は思い出したように呼吸を再開した。
里長ラジャンは屈強な肉体を有する彪人たちの中にあって、それほど大きな身体の持ち主ではなかった。
体格でいえばバグワントよりも若干ながら小兵で、里を訪れて最初に出会った三人とさほど変わらない。
だが、全身から放たれる言葉では言い表せない迫力と、畏怖と畏敬の念を込めて見詰める皆々の視線が、ラジャンが彪人たちを率いる頭役であることの何よりの証左だった。