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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第一章  彪 人(とらびと) 篇   第三節 「山河を越えて」
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第五十四話  郷 里 (きょうり) Ⅱ

「お前たち、何を騒いでいる。稽古の時間だぞ」


 そのときだった。

 声を上げて笑い合う男たちの後方から何物かの声が響く。

 現れたのは新たな二人の彪人で、アシュヴァルを小突き回していた三人の男たちは涙を拭いながら声のしたほうを振り返り、二人のうちの大柄な彪人に向かって口を開いた。


「なあ、聞いてくれよ!! あのアシュヴァルが帰ってきたんだ!!」

「腕試しさせてもらおうぜ!!」

「まあまあ強くなったんだってよ!!」


 三人よりもさらに身体の大きな彪人は、口々に言い立てる彼らの言葉を右から左に聞き流し、それぞれの目を見据えながら名前を呼んだ。


「ヌダール、エッシュ、ヴァルン——」


 名を呼ばれた三人は、口を閉ざして声の主を見詰める。


「——お前たちは先に稽古場へ向かっていろ」


「……へいへい、しらけちまったぜ」

「さっさと行こうぜ」

「まあまあってどれぐらいだ?」

 

 大柄な男の声音に真剣なものを感じ取ったのか、三人は互いに小突き合いながら里の中へと消えていった。

 去っていく三人を見送ったのち、大柄な彪人はアシュヴァルの元へと歩み寄る。

 もう一人の彪人はといえば、彼のやや後方に影のように控えていた。


「本当に帰ってきたんだな、アシュヴァル。いつ以来だ」


 言って大柄な男は、アシュヴァルに向かって前腕を突き出してみせる。

 アシュヴァルも応えるように自らの前腕を突き出し、二人は互いの腕を交差させる形で触れ合わせた。


「久しぶりだな、バグワント。二年半ぶりくらいか。それから——」


 アシュヴァルはそう口にすると、バグワントと呼んだ大柄な彪人の後方に立つ、もう一人の彪人に視線を向ける。


「——シェサナンド。お前も変わりなさそうだな」


 今度はアシュヴァルのほうが先んじる形で前腕を突き出したが、シェサナンドと呼ばれた彪人は、冷然とした目つきをもってにらみ返す。

 そしてあいさつに応じることなく、「ふん」といら立ち交じりに吐き捨てた。

 差し伸ばした掌を所在なさげに握ったり開いたりしたのち、アシュヴァルは無言で手を引っ込める。


「シェサナンド」


 無礼な振る舞いをたしなめるような調子でバグワントは言うが、名を呼ばれた当人は不服げな態度を隠そうともしない。

 それどころか顔はみるみる怒りに染まっていき、やがて感情を爆発させるかのように声を荒らげた。


「……兄貴っ!! こいつ——アシュヴァルの奴、俺たちに何も言わずに里から逃げ出したんだぞ!! なのにさ、今更どの面下げて帰って来れるっていうんだよ!?」


 突き出した指先でアシュヴァルの鼻先を示しつつ、シェサナンドは食い下がるように言う。

 だがバグワントは、弟であろう彼の言葉に一切聞く耳を持とうとしない。

 そんな様子に、シェサナンドの憤りは突き放すような態度を取る兄から、当のアシュヴァルへと向けられる。

 アシュヴァルの間近まで歩み寄った彼は、その首元の毛を乱暴な手つきでつかみ上げると、多分に怒りを含んだ言葉を口にした。


「なあ、お前さあ!? どんな顔してここにいられるんだよ!! よく恥ずかしげもなく里の敷居がまたげるな!!」


 押し黙ったままのアシュヴァルに業を煮やしたのか、シェサナンドは首元を握る手にさらに力を込める。

 兄に比べると小柄といってもいいシェサナンドだったが、それでもアシュヴァルと並べば、彼よりも頭半分ほどは大きい。


「おい、アシュヴァル!! 黙ってないでなんとか言ったらどうなんだよ!!」


「シェサナンド、そのくらいにしておけ」


 それまで口を出すことなく静観していたバグワントだったが、二人の間に割り入ったかと思うと、伸ばした手で弟の腕をつかみ上げる。

 無理やりアシュヴァルから引きはがされたシェサナンドは「ちっ」と舌打ちをしたかと思うと、激しいいら立ちをあらわにしたまま背を向けた。

 怒りを表すように左右に大きく揺れる尾を見詰める少年だったが、不意に振り返った彼と目が合ってしまう。

 シェサナンドは鋭い一瞥を投げてよこしたのち、何も言わず里の中へと姿を消した。


「悪かったな、アシュヴァル。弟を許してやってくれ。少々気が立っているようだ」


「構やしねえって」


 弟に代わって謝罪の言葉を口にするバグワントに小声で応じ、アシュヴァルは首筋をさすりながら続けて言う。


「それによ、シェサナンドの言うことは別に間違っちゃいねえ。俺が——里を出ていったのは本当だしよ。あいつが腹立てる気持ちもわからなくもねえさ」


「そうか」


 腕を組み、首肯で応じたバグワントは、次いで少年に対して向き直る。

 不可解なものを見るような目で全身を見回したのち、彼は静かに口を開いた。


「ところでお前は何者だ。仕事の依頼か」


「し、仕事? じ、自分は……」


「あー!! 違うんだ、そうじゃねえ。そいつはなんていうか俺の——連れだ。でよ、俺がこうして厚かましくも帰ってきたのにも理由があって……」


 突然話を振られ、戸惑う少年に代わり、アシュヴァルがとっさに口を開く。

 言いにくそうに言葉を濁す彼だったが、ややあって意を決したように告げた。


「恥を忍んで頼む! なあ、バグワント! さ、里長さとおさに話があるんだ! なんとか取り次いじゃあもらえねえか……!?」


「里長に——だと?」


 バグワントは嘆願するアシュヴァルに視線を移し、彼の口にした言葉を繰り返してみせる。


「何を言っている。取り次ぐも何も、今から稽古の時間だ。お前も知っての通り、里長も当然ご覧になられる」


 言って瞑目し、考え込むそぶりを見せると、バグワントはアシュヴァルに向かって持ち掛けるように言った。


「どうだ、アシュヴァル。お前も久しぶりに参加してみるというのは」


「はあ!? ……い、いや、俺は別にそんなつもりじゃ——」


 慌てて断りを口にしようとするアシュヴァルの肩を、はたから見てもわかる力強い手つきでつかむと、バグワントは有無を言わさぬ口ぶりで続ける。


「いいから見せてみろ。まあまあ——強くなったんだろう。四の五の言わずに付いてこい」


「あ、いや——」


 何か言いかけるように口を開いたが、あらがう言葉が出てこないのか、アシュヴァルは結局何も言わずに黙り込んでしまった。


「そ、その——! バグワント、だったかな……?」


 つと声を掛けたのは、辺りを包む空気に居たたまれなさを感じたからでもあった。

 アシュヴァルの肩をつかむ手を離すと、バグワントはいぶかしげな視線で少年を見下ろす。


「何か用か」


「う、うん。その……聞きたいことがあって——」


 前置きし、指先で自らの顔や身体を指し示す。


「——見てないかなって思って。こう、自分に似た女の子で……背はこのくらい、それで毛が——」


「知っている」


 身ぶり手ぶりでローカの特徴を伝える少年に対し、バグワントはあくまで平然と答える。


「や、やっぱり——!! ローカはここに来てるんだ……!!」


 バグワントの返答を受けて思わず声を上げ、次いでアシュヴァルを見上げて安堵の微笑みをこぼす。

 ぎこちない笑みを浮かべて小さなうなずきで応えてくれる彼から、少年は再びバグワントに視線を移して問う。


「ど、どこに……!? ローカは——その子は今どこにいるの!?」


「知ってはいるが、俺から話せることは何もない。どうしてもと言うのならば——後ほど里長から直接聞くといい」


 素っ気なく応じ、バグワントは改めてアシュヴァルに視線を向ける。


「お前も——お前の連れとやらも、里長に用向きがあるのは同じのようだ。参加するもしないも自由だが、取りあえず顔を出せ」


 言うだけ言い、バグワントは踵を返して里の中へと歩き去る。

 見上げるアシュヴァルは深く考え込むように目を閉じていたが、しばしののち、気合の雄たけびを発して頬を張る。


「あああ、ったくよ!! こうなっちまったら仕方ねえ!! おし——!! 行くぞっ!!」


 前後に大きく腕を振り、大股で歩き出す彼の後を追い、少年もまた彪人の里へと足を踏み入れる。

 詳細を知ることはできなかったが、ローカがこの集落へやって来たのはどうやら確かなようだ。

 そしてアシュヴァルや他の彪人たちが「里長」と呼ぶ人物こそが、件の商人の言っていた大物であり、ローカの買い主であると確信する。

 しかし、その肩書きを口にしたときのアシュヴァルの恐れとも怯えともつかない表情を思い返せば、事態が一筋縄ではいかないこともまた想像に難くない。

 気を引き締め直すように両手で顔をさすり、速足でアシュヴァルの後を追った。


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