第五十三話 郷 里 (きょうり) Ⅰ
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「こ、ここが——彪人の里……!」
目の前に広がる光景に、胸の内は深い感慨で占められていた。
体調は最悪の状態に近かったが、見渡す壮大な景色は不調を忘れさせるほどに激しく心を揺さぶる。
異種と遭遇したあの日から、さらに五日間を歩み続けた。
崖道や岨道、険しく厳しい隘路を抜け、足元の悪い川を慎重に渡る。
山腹に位置する彪人の里へ続くという急勾配の山道を、はやる気持ちを抑えて進んできた。
目まいや息苦しさに加え、激しい頭痛を伴う山酔いの感覚も初めて味わった。
澄み切った空気は肌を刺すほどに冷たく、吸い込めば肺腑の内側から身体を苛むほどだ。
慣れない高地の道行きに何度も足を止めながら、時にアシュヴァルの背に負われながら、鉱山を発って十三日が経ったその日、少年はついに彪人の里へと足を踏み入れる。
当初に立てた予定より、三日遅れで済んだのは僥倖といえた。
その結果も全て、アシュヴァルの支えがあったからに他ならない。
異種との遭遇の件も含め、一人では逆立ちしてもこの地にたどり着くことなどできなかっただろう。
鉱山を出た際に見上げた空も美しく感じたが、この地で見る雲ひとつなく晴れ渡る空は、まったくの別物だった。
遮るものひとつない、抜けるように広がる濃く鮮やかな紺碧の空を見ていると、世界がどこまでも続いているようにさえ感じられる。
高地から見晴るかす麓の景色も壮観で、歩んできた道のりが眼下に一望できた。
周囲の景色を存分に堪能したのち、振り返って彪人の里を見据える。
集落の入り口から延びる石畳の道の両脇には、土をつき固めた白壁の家々が立ち並んでいる。
石造りの家屋が密集するように建てられているのは、吹きさらしの風に耐えられるようにだろうか。
家々の合間を縫うように走る道幅の狭い道を行き交う黄と黒の縞模様の人影を認め、少年は思わず感嘆の声を漏らしていた。
「本当に来たんだ……!」
深く感じ入るように呟いたのち、傍らにある彪人の顔を見上げる。
「あれ? アシュヴァル……?」
見上げたはずだったのだが、直前まで隣にいたはずのアシュヴァルの姿はいつの間にか消え失せてしまっていた。
結果、仰ぎ見たのは何もない中空だ。
居所を求めて周囲を見回せば、集落の入り口付近に生えた樹の陰に、身を潜めるように立つ彼の姿が映る。
「アシュヴァル!!」
今一度名を呼んで駆け寄ろうとした瞬間、血相を変えた彼が樹の陰から飛び出してくる。
少年は不意に手を伸ばしたアシュヴァルによって樹の陰に引き込まれ、厚みのある掌で口元を覆われていた。
「ん……んんっ——」
「わ、悪い」
息のできない苦しさに身をよじる様子を認め、アシュヴァルは取り乱した様子で手を放す。
状況ののみ込めない少年は、けほと小さくせき込んだのち、改めて傍らに立つ彪人を見上げて口を開く。
「アシュ——」
最後まで呼び終える直前、腰を落としたアシュヴァルは自らの口元に人さし指を押し当てる。
それが沈黙を促すしぐさであると理解し、とっさに口をつぐむ少年に対して、彼はどこか弱々しくも聞こえる口調で告げた。
「……あのよ、あんまりでかい声で呼ばないでくれると助かるんだが——」
意図を測りかねつつも黙してうなずく少年を見下ろし、アシュヴァルは小さなため息をついた。
「あああああ!!!!」
直後、辺りに何者かの声を響く。
声を耳にしたアシュヴァルの表情は、引きつるようにゆがんでいた。
「お前っ!! アシュヴァルじゃねえか!?」
嬉々として発せられたひと声がきっかけとなり、男のものであろう幾人かの声が重なる。
「やっぱりアシュヴァルだ!!」
「帰ってきたのかよ!!」
「久しぶりだなあ!!」
声のした方向を見やると、そこにはばたばたと駆け寄る三人の彪人の姿があった。
アシュヴァルと同じく、黄と白の地に黒の縞模様の被毛に身を包んだ屈強な身体つきの男たちだ。
色違いの腰布を身に着けた三人は、少年には目もくれずにアシュヴァルの元へ一直線に歩み寄り、うつむき気味の彼の顔を見下ろしながら次々と声を掛けた。
「あれからどうしてたんだ!?」
「いつ帰ってきたんだ!?」
「元気だったか!?」
矢継ぎ早に尋ねる彼らの質問に答えるため、口を開こうとするアシュヴァルだったが、三人はお構いなしとばかりにその身体を小突き回す。
一人が拳で肩を押せば、もう一人が腹部を拳で突くようなまねをする。
三人目が頭を乱暴になで回すと、一人目の男はうつむくアシュヴァルを見下ろしながら「ところでよ——」と口を開いた。
「——強くはなれたのか? なあ、アシュヴァル!?」
男が顔をのぞき込みながら尋ねると、残りの二人も手を引っ込めて返答を待つ。
「ま——まあまあ……かな」
アシュヴァルが目を背けるようにして答えれば、男たちは一斉に顔を見合わせる。
一瞬の間を置いて大声を上げて笑い合ったのち、三人組はアシュヴァルの肩をばしばしとたたいて愉快そうに言った。
「そりゃいいや!!」
「言うじゃねえか!!」
「まあまあだってよ!!」
黙ってうつむくアシュヴァルと、そんな彼をからかいでもするかのように小突き回す三人を、少年はその場に立ち尽くしたまま、ぼうぜんと眺めていた。
三人が三人ともアシュヴァルよりも頭一個分ほども大きく、肉体も彼以上にたくましい。
屈強な戦士であることの瞭然とした男たちと並ぶと、アシュヴァルはまるで子供のようだ。
向けられている視線に気付いたのだろうか、うつむいたまま見返すアシュヴァルの目は、どこか卑屈な色を帯びているように見えた。