第五十一話 異 形 (いぎょう) Ⅱ
足元に横たわるのは、目覚めて以降一度も見たことのない生き物だ。
末期を見る限り生き物であるのかどうかすらもわからないそれが、自身に向かって飛び掛かってくる様を思い返し、思わず恐怖に身体を震わせる。
あのまま無抵抗でいたなら、どうなっていただろうか。
死んで——殺されていたかもしれない。
「こいつはよ——」
少年の放った問いに、アシュヴァルは足元の残骸を見下ろしながら口を開いた。
「——イシュだ」
「イ——シュ……?」
ぼうぜんと呟く少年に対し、彼は今一度その名を口にする。
「そうだ。『異種』——それがこいつらの呼び名だ。つってもまあ、てめえで名乗ってるわけじゃねえから、俺たちが勝手にそう呼んでるってだけの話だけどな」
「異種……」
教えられたばかりの名を呟き、足元に横たわる灰色がかった残骸に改めて視線を落とす。
そこには先ほどまで生きて、動いていたという気配は感じられず、硬質な外皮がまるで無機物のように積み重なっている。
どちらかといえば光沢を持って見えた表皮も、朽ちると同時に艶を失っているように思えた。
「異種ってのは……そうだな、言ってみりゃ天災みてえなもんだ。どっかから現れては人を襲う、よくわかんねえ生きもんさ。いつ頃から人前に現れるようになったのかは誰も知らねえが、何百年か前の記録には人を襲ってたって書かれてるらしいぜ。それ以外は何一つわかんねえことばっかでよ、わかるのは人を襲って——食っちまうってことだけだ」
「食う……? ひ、人を——食べるの……!?」
思いも寄らない言葉に、耳を疑うよりなかった。
突然襲われ、危害を加えられそうになったのは事実だが、まさか食べられるところだったとは考えもしていなかった。
振り返ってみれば確かにそれが——大きく口腔を開け放った異種が、自身をのみ込もうとしていたように思えなくもない。
「た、食べられる——ところだったんだ……」
口にすると同時に、強烈な怖気が背筋を駆け上ってくる。
にわかに震え出す身体を両腕で抱いて無理やり押さえ込むが、行き場を失って口から漏れ出た恐怖が、がちがちと歯を鳴らす。
肩を抱えて縮み上がる少年を、アシュヴァルは痛ましいものを見るような目で見下ろしていた。
「悪かった」
「え……?」
突然の謝罪の言葉を受け、とっさにアシュヴァルを見上げる。
謝られるようなことをされた覚えなどなく、責められるべきは言い付けを破った己のほうだ。
なぜ彼のほうが申し訳なさそうに表情をゆがめているのか、まったくもって理解できない。
アシュヴァルは立てた指先で後頭部をかきむしると、いら立たしげに舌を鳴らした。
「お前にはまだ早いって考えてた。あんときと——人を人とも思わねえ連中がいるって教えられなかったのと同じでよ。人を襲って食っちまう化け物がいるってこと、どうにも言い出せなかった。いつ話すかってぐずぐずしてるうちに——こうだ」
アシュヴァルの言う「あんとき」とは、囚われのローカの姿を初めて見た自身が、激しく心を乱した日のことだろう。
「教えられていないことがある」と彼が語ったあの日のことは忘れもしない。
「ちゃんと順を追って話すつもりだった。様子見ながら都度都度って感じでよ。お前にゃあ一つ一つ覚えていってほしかったんだ。人が人を所有するって話、あれは仕方なかった。まだ話すべきじゃねえって思ったが、さすがに状況が状況だったからな。異種の——人を食う化け物のことも折を見て話そうって考えてたんだが、なかなか予定どおりにはいかねえもんだな。ま、あれだ——」
一度言葉を切り、深々と嘆息する。
「——この際都合がよかったのかもしれねえな。俺なんかがあれこれ説明するより、自分の目で見るのが一番だ。見てみろ」
膝を折ってその場に腰を落とすと、彼は折り重なった残骸の中のうちの一枚を拾い上げる。
「我が物顔に暮らしちゃいるがよ、俺たち人はなんもかも好き勝手にできるってわけじゃねえんだ。襲われてよ、引きずり回されてよ、簡単に食われちまう——そんな弱っちい生き物なんだ。いろんな種がいて、でけえ小せえ、硬え軟らけえみてえな差はあるが、そんなん異種からすればどっちもどっちだ。今日の晩飯は芋にすっか豆にすっか——ぐらいの違いでしかねえんじゃねえのかな」
次々と語られる意想外の情報は、少年を絶句せしめるには十分過ぎるほどだった。
その内容に思考が追い付かず、何か発しようにも思うように口が動かない。
地面に座り込んだまま口を開け放っていると、アシュヴァルは手にした異種の残骸を放り出しながら言った。
「けどよ、やられっ放しじゃ終わんねえのもまた人だ。数百年かけて、人は戦う力を磨いてきた。知恵と技と力でよ、異種に立ち向かうすべを研ぎ澄ませてきたんだ」
立ち上がるアシュヴァルを目で追う。
彼は自らの掌を拳で打って続ける。
「そいつらは肉体を鍛えた。絶対に負けねえって覚悟決めて、他の誰よりも——どんな種よりも強くあろうって願った。戦うための武器を鍛えようと熱上げてる奴らもいれば、それをどう上手に使うかって技を競い合ってる奴らもいる。中には逃げ足磨いて生き延び続けてる連中もいてよ、他にもてんでに違ったやり方で——」
そこまで話したところで、アシュヴァルは拳を固く握り込む。
「——どいつもこいつも、あいつもそいつも……みんなてめえのやり方であらがってやろうって躍起になってよ。人のそういうところはなかなか捨てたもんじゃねえよな」
唇をつり上げて笑みを浮かべてみせたのち、彼は再び足元の異種の残骸を見下ろした。
腰を屈め、残された異種の残骸を拾い集め始める。
「こいつらも同じなのかもしれねえな。やられるままじゃいられねえのは、お互いさまだろうからよ。——ほら、お前も持てよ」
「……う、うん」
答えてうなずき、少年もまたその場に屈み込む。
倣って恐る恐る手を伸ばす様を目にし、アシュヴァルは笑い飛ばすように言った。
「もう大丈夫だって。そんなにびびんなくてもよ」