第五十話 異 形 (いぎょう) Ⅰ
草木の間から姿を現したそれは、黄と黒の見慣れた縞模様とは明らかに異なる姿を有していた。
異様極まりない容貌を目の当たりにし、全身にしびれるような戦慄を覚える。
ぬらりとした硬質の表皮で身を覆ったそれは、大地にはわせた前後四本の肢を器用に操って迫る。
体表はアシュヴァルやイニワのような獣人の被毛とも、嘴人たちの羽毛や鱗人たちの鱗甲とも、自身やローカのような皮膚とも異なる特徴を持っていた。
既知の知識で例えるなら、肌合いは陶器や磁器に近い。
胴部の先端に位置するおそらく頭部であろう箇所には目も耳も鼻もなく、ただ口腔に似た、割れ目のような器官だけが水平に走る。
そこからは透明の液体が途切れることなく滴り、隙間風のような音が漏れ聞こえていた。
目の前に迫るそれが、極めて危険な存在であることは本能が告げている。
会話による意思疎通を試みようという気にすらならない。
立ち止まっている暇があるなら逃げろと全身が警告を発するが、腰の引けてしまった少年はその場から一歩も動けずにいた。
「あ……」
「▂▃▅▇▄▅▆▃▂▅▆▇」
口であろう割れ目を裂けんばかりに開け放ったと思うと、後肢で大地を蹴り上げた異形が勢いよく飛び掛かってくる。
「う……うわあああっ!!」
悲鳴にも似た叫びを上げ、手にした水筒を前方に突き出す。
異形の生き物は口腔に水筒をくわえ込むと、勢いに任せて身体に伸し掛かってくる。
アシュヴァルと同等か、それ以上の体躯を有したそれに組み敷かれ、身動き一つ取ることができない。
口腔から液体を滴らせながら迫る頭部から、少年は身をよじるようにして顔を背けた。
「……な、なに——」
「▁▂▃▆▄▂▄」
見当違いの呟きを漏らし、必死に抵抗を試みるが、渾身の力をもってしても迫る頭部を押し返すことはできない。
口腔の上下に規則正しく並んだ歯か牙のような突起が水筒の表面を貫き、先ほどくんだばかりの水を顔から浴びる形となる。
「だ、駄目だ……このままじゃ……」
長く耐え続けることはできないだろう。
のみ込みでもせんばかりに一層大きく開け放たれた口腔を見上げながら、少年は絶望にも似た感覚を抱いていた。
突っ張るように伸ばした腕から、徐々に感覚が失われていくのがわかる。
このままでも持って数十秒程度、今以上の力で押し込められたなら、ひとたまりもなく屈してしまうに違いない。
地に擦り付けるようにして再び頭部を捻り、可能な限り身を遠ざける。
「ぐっ——」
直後、ふと片目で見上げた崖上に、何者かの影を認める。
闇の中でも鮮やかな被毛の持ち主は、窮地の中で誰よりも待ち望んだ人物だった。
「あ……」
「おらよっと!!」
「▆▄▇█」
崖上から滑り降りるように現れたアシュヴァルは、異形に向かって勢いのまま肩から突っ込でいく。
次いで勢いよくはじき飛ばしたそれを、全身を使って組み伏せるようにして抑え込む。
頭部の付け根——人でいえば頸部に当たる部位を肘で押さえ付ける形で固定すると、彼は高く振り上げた拳を怒号とともに何度も繰り返したたき付けた。
「こんの野郎っ——!! ……おら! おらよっ!!」
「▄▂▁▂▆▇█▄▆█」
動きが鈍ったと見るや、両腕で頭上高くつかみ上げたそれを全体重を乗せて岩に打ち付け、頸部らしき部位を腕で抱え込むようにして固く絞め込む。
続けてあらがうように激しく小刻みな動きを繰り返す異形を、一心不乱に絞め付けた。
「█▆▄▆█▇▆▄▂▆▇█▆▇█▄▂▁▁▂▁▁」
数分ののち、アシュヴァルは微動だにしなくなったそれを見下ろしながら立ち上がる。
鋭い歯牙で噛みつかれた箇所からは血が滴り、硬質な表皮を打ち続けた拳にも赤いものがにじんでいる。
乱れた呼吸を整えるように肩を上下させ、さまざまな感情の入り交じった複雑な表情を浮かべて自らの腕をひとなですると、彼は腰を抜かしたように座り込んだ少年をぎろりとにらみ付けた。
「お前っ……!!」
あまりの剣幕に、思わずびくりと身をすくませる。
殴られるかもしれないと、目を閉じて痛みに備えるが、いつまで経っても拳や平手が飛んでくることはなかった。
恐る恐る開いた目に映ったのは、気が抜けたように肩を落とすアシュヴァルの姿だった。
「……よかったぜ、無事でよ。無事——だよな?」
「う、うん——! 無事、無事だよ! アシュヴァルのおかげで……あ、ありがとう——!」
放心したようにその場に腰を突いてしまうアシュヴァルに対し、繰り返し感謝の言葉を口にする。
「そりゃあよかった……」
答えて仰向けに倒れ込むや、腹筋を使って即座に身を起こした彼は、少年に向かってとがめるような視線をたたき付けた。
「だからお前なあっ……! 俺から離れるときはちゃんと教えろってあれほど言っただろうが!!」
やはり怒られるのだと、再度身体を縮こまらせる。
だがその怒りが、自身のことを真に案じてのものであることは十二分に承知している。
心配を掛けたこと、手を煩わせてしまったこと、そして傷を負わせてしまったことをただただ悔いる。
「ごめん、ありがとう——ごめん……!!」
「……ったくよ、二度と黙っていなくなるんじゃねえぞ」
謝罪と感謝を交互に伝える少年を前にして怒りを静めたのか、アシュヴァルは深々と嘆息しつつ答える。
次いで立ち上がった彼は、自ら仕留めた得体の知れない生き物の元に歩み寄る。
恐る恐る視線をそちらへと向けた少年は、それが硬質な外皮を残して溶け去ってしまっていることに気付く。
その在りようは亡骸というよりも、残骸と呼ぶほうがふさわしく思えた。
「そ、それは……なに——?」
口を突いて出たのは、至極単純な疑問の言葉だった。




