第四十九話 道 中 (みちなか) Ⅲ
さらに三日ほど彪人の里へ向かって歩き続けた頃、辺りの風景はにわかに色を変え始める。
岩と石の転がる鉱山から、草深い野や緑濃い樹々の合間を踏み分けて行き着いたのは、再びの険しい山道だった。
どちらかといえば湿って赤茶けた岩の目立った鉱山と比べ、向かわんとする先に広がる山々は乾いて白みがかって見える。
比較的緩やかだった地形は徐々に峻険さを増していき、道と呼ぶことのできないような悪路へと変わっていった。
勾配の続く山道を進むうちに大気は冷気を帯び、朝や夜などは、温暖な昼間からは考えられないほどの寒さが襲う。
分厚い被毛を持つアシュヴァルと違って寒さに耐え得る毛のない少年は、昼間でも夜具を身にまとって道を進んだ。
野営の際はまきを集めて火を起こし、冷えた身体を少しでも温めるため、乾燥した携帯食を小鍋で汁物にして食べた。
眠るときはアシュヴァルに寄り添い、ごわついた被毛で暖を取らせてもらう。
彼は嫌がるそぶりを見せず、黙って背中を貸し与えてくれた。
アシュヴァルによれば、すでに道のりの半分以上は消化しているらしい。
しかしここまで何事もなく来られたのは、天候に恵まれていたからだと続けて説明する。
高度が上がるに従って風は強くなり、伴って遮るものも少なくなっていく。
ここからの道中は、ますます過酷なものになると彼は念を押した。
その夜、あまりの寒さに目の覚めてしまった少年は、小用で野営の場を少しだけ離れていた。
「俺のそばから離れるときは必ず言えよ」と固く戒められていたが、このときはいびきを立てて眠るアシュヴァルを前に、気後れがして声を掛けることができなかった。
なんのためかと言い出すことにいくばくかの羞恥を感じるとともに、彼の貴重な眠りを妨げることに罪悪感を覚えたからだ。
併せ、水筒の中身が少なくなっていたことを思い出す。
飲用に加えて夕食の調理にも使っているため、水の減りは早い。
帰りにくんでくれば、明日の手間をひとつ省くことができるだろう。
アシュヴァルの分と自身の分、二本の水筒を手に、昼の間にそこにあることを確かめていた川辺に向かって歩き出した。
月の放つ光は地上を照らし、夜中でも角燈を必要としないほどの明かりを落としている。
昼夜の区別なく、常に薄暗い雲で覆われた鉱山では考えられないことだった。
用を済ませ、たっぷりと水をくんだ二本の水筒を手にアシュヴァルの元に戻ろうとしていたときだった。
月明りを頼りに歩く途中、ふと立ち止まって月を見上げる。
遠く山嶺にかかるそれは、心なしか赤く色づいて見えた。
欠けのない真円をなした月が地上に投げ掛ける赤銅色の輝きに、何か不吉な予感のようなものを感じる。
「あ——」
夜半の空に浮かぶ赤い月と、いつか見た仄赤い光をたたえた少女の瞳とが重なり、唇の隙間からかすれた声が漏れる。
どこからか見られているような——そんな不可解な感覚に不意に目まいを覚え、月を見上げたまま一歩二歩と足踏みするようによろめいたときには、少年の足は崖際を踏み崩していた。
「……うわっ——!!」
身体が斜面を転がり落ちる。
両手が自由ならば、とっさに手を突いたり、手近な岩にしがみ付いたりなどしてこらえることができたかもしれない。
二本の水筒を手放すという選択に思い至ることなく、左右の手にそれを握り締めたまま、少年は崖下まで滑落していた。
「い、痛……」
うめき声を上げながら身を起こし、まずは手足が動くどうかを確認する。
擦り傷切り傷だらけで身体のあちこちが痛むも、目立って大きなけがは負っていないようだ。
つまづいたり転んだりは鉱山の仕事で散々経験している。
とっさのことながら受け身を取ることができたのも山での経験のたまものと、安堵のため息をついた。
頭上を見上げれば、自らの滑り落ちてきた崖が見て取れる。
思いの外浅かったために痛い程度で済んでいたが、もしもこれ以上深い崖であったなら、取り返しのつかないことになっていたかもしれない
考えると、途端に恐れと後悔の念が湧き上がってくる。
続いて、一人で出歩いたことを責めるアシュヴァルの険しい顔が頭を過ぎる。
軽い身震いを思えながら今一度空を見上げたが、月の放つ赤色の光に少女の瞳を見ることはなかった。
一刻も早くアシュヴァルのところに戻らなくてはならない。
二本の水筒を小脇に抱え直して崖を登ろうと試みるが、どこにも手足を引っ掛ける箇所が見当たらない。
無理やりよじ登ろうとしても、崩れ落ちる土や砂とともに崖下に引き戻されてしまう。
崖を登ることはいったん諦め、他の道を探すことにする。
水をくんだ川の上流を目指して歩いてみたが、滝によって道を阻まれ、樹に登って崖上に飛び移ろうとするも、あと一歩及ばなかった。
あまり歩き回っては、それこそ本格的に遭難しかねない。
一人であれこれ考えるよりも、夜明けを待つか、あるいはアシュヴァルが探しにきてくれるのを待つほうが正解なのかもしれない。
もしも今大声でその名を呼んだら、自身のいなくなったことに気付いてくれるだろうか。
途方に暮れる中、ふとそんな考えが頭をよぎった。
大きく息を吸い込んで天を仰ぐが、その名を叫ぼうと口を開け放ったところでいったん口を閉ざす。
後方から、草木をかき分けるような音が聞こえたからだ。
不在に気付き、探しにきてくれたのだろうか。
小躍りせんばかりの勢いで、揺れ動く茂みに向かって声を放った。
「アシュヴァル!!」
「お前なあ」「何やってんだ」「だから言っただろ」と、そんな言葉が返ってくることを期待するが一向に返事はない。
声の代わりに、茂みをかき分ける音だけが徐々に大きくなっていく。
「……アシュヴァル——だよね……?」
不意に得体の知れない不安と恐怖に襲われる。
凍り付いてしまったかのように動けなくなった少年は、次第に大きくなっていく物音に怯えながら、揺れ動く茂みをじっと凝視し続けた。