第四話 衣 食 (いしょく) Ⅰ
男の向かった先は、往来の片隅に位置する小さな酒場だった。
彼は慣れた様子で店の敷居をまたぐ。
「おう、邪魔するぜ」
簡素な内装の店内には、眠たげにあくびをこぼす店の主人であろう男と、客用の椅子に腰掛けて暇そうに長机にもたれ掛かる女の姿がある。
二人は店内に足を踏み入れる男を横目に認めて軽く頭を下げ、次いでその背に負われた少年を不思議そうな目で見やっていた。
最奥の卓まで足を進めた男は、背から下ろした少年を手ずから引いた椅子に腰掛けさせる。
次いで男が向かい側の席に着くと、気だるそうな足取りで卓までやって来たのは先ほどまで厨房に面した長机に伏していた女だった。
「いらっしゃい。なんにする?」
尋ねたのは男に対してだったが、少年は彼女のいぶかしむような視線が自らに注がれていることに気付いていた。
「一番うまいやつ持ってきてくれよ。こいつにも同じのを頼む」
指先でこつこつと卓を打って女の注意を自らに向けさせると、男はからかうような口調で注文をする。
女は「知ってるでしょ、どれも一緒」と舌を出してやり返し、店の主人であろう男に注文を通した。
主人は無言で手を動かし始め、ものの数分もしないうちに一品目の料理が出来上がる。
給仕の女によって卓の中央に置かれた皿を、男は少年の前へと突き出した。
料理の盛られた皿を四方から眺め回し、鼻を寄せてにおいを嗅ぐ少年を愉快そうに眺めていた男だったが、その腹が再び空腹を訴えるように鳴り響くのを聞くと、唇の端に笑みを乗せて言った。
「早く食えよ。腹の足しくらいにはなる」
男の言葉が聞こえたのだろう、店の主人は不服そうにせき払いをし、給仕の女も小さな含み笑いをこぼす。
二人を見やったのち、少年は再び料理の皿に視線を落とした。
男は催促するかのように皿に向けて顎をしゃくってみせる。
「ほら、食えって」
「く……う——?」
男の言葉を受け、不意に口から言葉が漏れた。
ようやく思いを言葉にできたことに驚きと安堵を覚えるが、それ以上に驚愕をあらわにする男を前にして開きかけた口をつぐんでしまう。
「なんだよ! お前、喋れるんじゃねえか! そうだよ。食う、食べる——だよ!!」
嬉々とした表情で言うと、男は少年の手に強引に突匙を握らせ、料理の盛られた皿を指先で示す。
少年は突匙を握ったまま皿の中身——軽く焼き目のついた半透明の塊を見下ろした。
湯気とともに立ち上る香ばしい匂いに、知らず手が伸びていた。
ぎこちない手つきで突匙を皿の中身に突き立て、眼前まで持ち上げたそれをじっと凝視する。
「ああ、焦れってえなあ! 見てるだけじゃ腹は膨れねえぞ」
男は業を煮やした様子で漏らすと、皿から半透明の塊をひと切れつまみ上げる。
「いいか、こうやるんだよ」
幾度か繰り返し息を吹き掛けて熱を冷まし、男はつまんだ塊を口内へと放り込む。
見せつけるように殊更大仰なしぐさで口の中のものを噛みこなしたのち、大きく喉を鳴らしてのみ下した。
「——まあまあってとこだな。ほら、お前も」
男は厨房に立つ主人に空世辞を飛ばし、続けて少年に向かって促すように言った。
そのしぐさに倣って息を吹き掛け、突匙の先端の塊を恐る恐る口に運ぶ。
次いで男のまねをして顎を動かせば、得も言われぬうまみが口いっぱいに広がっていく。
十分に噛みこなされた口の中のものを嚥下すると、この一連の動作こそが「食べる」という行為であると理解する。
一度食べ始めるといかに自身が空腹であったかを思い知らされ、無我夢中で料理を口に運び続けた。
咀嚼と嚥下を繰り返し、あっという間に皿の中身を平らげる。
男は卓に片肘を突き、顎を手に乗せて少年が食事を進める様をうれしそうに眺めていた。
給仕が次の料理を運んでくると、彼は視線をもって少年の前を指し示す。
目の前に二皿目が置かれるや、少年は早速新たな料理に手を伸ばした。
「——ん……ぐ——」
「ほら、飲めよ」
勢い込んで料理を口に詰め込み過ぎたせいか、喉を詰まらせてしまう。
男の差し出してくれた水飲みを両手で抱えて一気にあおる。
「よく噛んで食えって。誰も取りゃしねえよ」
喉を鳴らして水を流し込む様を眺めながら、男はさもおかしそうに言った。
少年が再び料理に手を付け始めるところを見て取ると、男は空になった水飲みを引き寄せ、卓に置かれた水差しから水を注ぐ。
「それだけ食えりゃ万々歳だな」
水飲みを押しやりながら愉快そうに呟き、男は自らも食事を進め始めた。
少年が提供された三皿を残った汁の最後のひと滴までなめ尽くすところを見届けると、男は満足そうな表情で尋ねる。
「どうだ、少しは元気になったか?」
必死に頭をひねった結果、出した感想は先ほどの男に倣ったひと言だった。
「まあまあ……?」
「んはははは——! まあまあか! そりゃいい!!」
男は一瞬あっけに取られたような顔をしたが、わずかな間を置いて腹を抱えて笑い出す。
なぜ彼が笑うのかを理解できない少年には、ぼうぜんと男を見詰めることしかできなかった。
ひとしきり大声を上げて笑ったのち、男は一転して真剣な表情を浮かべる。
おもむろに伸ばした手で頭を覆う麻布を剥ぎ取ると、じっとその目を見据えて尋ねた。
「ところでよ。お前、何者なんだ」
「なに——もの……」
男の言葉を繰り返す。
自分自身が何者なのか、それは他でもない自身が何よりも知りたいことだった。
誰なのか、どこから来たのか、なんのためにここにいるのか。
即答したいのはやまやまだったが、そのどれ一つに対しても明確な答えを持っていない。
力なく肩を落として押し黙る。
男はそんな少年を前にして顎に指を添えて「んんん」とうなったのち、突然何かをひらめいたかのように顔を明るくさせた。
「そうだ、名前だ、名前!! そういや聞いてなかったよな! ——な、わかるか? 自分の名前!!」
さも名案だとばかりに身を乗り出して尋ねる男を見詰め返しながら、再び彼の言葉を繰り返す。
「名前——」
「ああ、そうだよ! 名前だ!」
「名前……誰の——君の……?」
問い返す少年に、男は肩透かしを食ったかのように気抜けした表情で答える。
「って莫迦野郎! 俺じゃねえ、お前の名前だよ。自分のだ、自分の! おい……まさか、名前も覚えてねえのか……?」
「名前……自分の——」
呟くように言って両手で頭を抱える。
そのうつむく様を目にした男は、何を思ったか両手で卓を打って立ち上がった。
突然の行動に驚いて顔を上げると、彼は左右の掌を突き出しながら言った。
「あー、わかったわかった! 悪かった、もういいって! 落ち着いたらそのうち思い出すだろ! お前はお前——今はそれでいいんじゃねえかな? ああ、そうだ! なんも問題ねえ!!」
矢継ぎ早にまくし立て、男は被毛に覆われた手を卓越しに伸ばす。
厚みのある掌で少年の頭を乱暴になで回したのち、男は親指で自らを示しながら言った。
「アシュヴァルだ」
「アシュヴァル——」
繰り返す少年に向かって、男はゆっくりとうなずきを返す。
「そうだ。それが俺の名前だ。見ての通り彪人だ——つってもわかんねえか。ま、今はそういうもんだと思ってくれればいい」
「君は……アシュヴァル。トラビトの——アシュヴァル」
「ああ。そうだ」
噛み締めるように呟く少年に対し、アシュヴァルと名乗った男は揚々としたしぐさでうなずいてみせた。