第四十七話 道 中 (みちなか) Ⅰ
無人の荒野で目を覚ましてからの半年間、一日の大半を鉱山の周辺や坑内で過ごしてきた。
鉱山で働く人々の暮らす麓の町の外に出たことは一度たりともない。
左を見ても右を見ても目に入るのは岩と石、空は製錬の過程で出る煙で紗を掛けたように灰色に染まり、付近を流れる川も泥と砂で茶色く濁っていた。
その地にたどり着く以前の過去と記憶を持たない少年にとって、鉱山とその麓の町は小さな世界だった。
それがこれほど早くに鉱山を離れることになるなど、考えもしていなかった。
もちろん、いずれは離れなければならないことは心のどこかで理解していた。
だが一週間の眠りから目覚めた翌日に、こうして外の世界への第一歩を踏み出しているという、まさかの急展開に思考が追い付かない。
しかし外の世界は少年の葛藤など知らぬとばかりに、その色鮮やかさをありとあらゆる角度から突き付けてくる。
鉱山の麓の町を発って二日ほどが経ち、岩と石と砂とで埋め尽くされた景色は影を潜め、世界は徐々に異なる色合いを見せ始めていた。
空は今まで見上げ続けていた煙ったそれと違って透き通るように青く、川面は陽光を受けて白く輝いている。
風に騒ぐ緑の木立はいきいきとした生命力を放ち、大地のあちらこちらに見たこともないような色彩豊かな花々が咲いている。
それらが誰かが植えたものではないと知り、ますますもって驚愕する。
これまでの自分が灰色の中に生きていたこと、外の世界がこれほどまでに多彩な色に満ちていることを初めて知った。
目に映るもの、耳に届く音、すべてが珍しく真新しい。
見知らぬ世界に飛び出し、我知らず浮足立っていた。
もちろんローカの足取りを追うという目標を忘れたわけではない。
一刻も早く彼女を連れた商人の向かった集落にたどり着き、もう一度その身柄を買い受けることができないかと掛け合わなければならない。
交渉の相手が蹄人の商人ではなく、彼女を買い取った大物とやらになる可能性も否定できない。
どんな人物なのだろうかと思いをはせるとともに、ローカが不死の妙薬として用いられるところを想像しては、何度も繰り返し身震いをした。
色鮮やかな世界に触れ得た感動と、思い描く考えるも恐ろしい少女の最期。
相反するふたつの情景に駆り立てられるようにして、少年は歩き続けた。
アシュヴァルが歩調を合わせてくれていることはすぐにわかった。
これが彼一人の道行きであったなら、もっと早く歩くこともできたに違いない。
「無理すんな」「負ぶってやっから」と気遣ってくれる彼に対し、「大丈夫」「歩けるから」と強情を張って懸命に歩き続けた少年だったが、ただでさえ高ぶっていた感情に、これ以上迷惑を掛けられないという虚勢、そして慣れない野営による睡眠不足も加わる。
肉体の訴える不調の兆候を看過し、気付いたときには体力尽き、一歩たりとも動けないほどに困憊してしまう。
結果、アシュヴァルの背に負われる形で、目的地を目指すこととなった。
「アシュヴァル、本当にごめん……」
「あいよ」
謝罪の言葉を口にするのも何度目だろう。
アシュヴァルもこの短時間でそんなやり取りに慣れたのか、短い言葉で軽く受け流すようになっていた。
身体一つと二人分の肩掛け袋を背負ってなお、彼は歩みを止めることなく進み続ける。
できるだけ負担にならないよう、首に回した手で確としがみ付く。
背に揺られる中、毛足の長い首筋に顔をうずめながら、ふと耳元に向かって声を掛けた。
「……アシュヴァル、今話しても平気?」
「どうした? 構わねえけど、舌噛むんじゃねえぞ」
「うん、ありがとう。その——今向かってる場所、どんなところなのかなって。彪人の集落っていうことは、そこに住んでるのは全員が彪人なんだよね?」
数多くの種が混在して暮らす環境は見慣れていたが、一つの集落が丸々同じ種で占められている光景など皆目想像が付かない。
しかもそれが、目にも鮮やかな黄と黒の被毛を有する彪人たちとあれば、さぞかし壮観な眺めだろう。
「なんだ、そんなことかよ。そりゃ当然だろ」
アシュヴァルは歩調を緩めることなく、あきれ交じりの口ぶりで答える。
「そうだよね、うん——」
「それだけか?」
尋ね返す彼に、思わず言葉を詰まらせる。
一緒に暮らして半年が経つが、アシュヴァルが進んで故郷のことを話したことは一度もなかった。
口にさえしたがらなかったその場所に、あろうことか案内までさせようとしている。
「本当によかったのかな——って。アシュヴァル、やっぱり……」
住んでいた部屋を引き払い、ここまで連れ出しておいて今更ではあったが、改めて尋ねてみる。
自分の一方的なわがままで彼に望まぬ行動を強いているのだとすれば、それは負う負われるどころの話ではない。
アシュヴァルは故郷に戻ることに対し、腹をくくると言ってくれていたが、手放しで信じていいのかが気掛かりでならない。
「なんだ、お前もしつこい奴だな。そんなんじゃ、あの娘にも嫌われちまうぞ」
「え——あ、あの娘って……え——!?」
「悪い悪い、冗談だ」
突然の言葉に困惑する少年を、アシュヴァルはからかうように笑い飛ばす。
「いいんだよ、んなこと。お前が気にすることじゃねえって。こいつは俺が一人で始末付けなきゃいけねえ問題なんだ。イニワが言ってたろ、鉱山の奴らが金出したのはあいつらが勝手にしたことだってよ。それと同じだ。これは俺が俺の意志でやってることなんだからよ、お前はなんも気にしなくていい」
言ってアシュヴァルはわずかに歩調を落とし、自らに言い聞かせるように続ける。
「それによ、いつまでも——なんだ、逃げてるわけにもいかねえってわかったしな。逆に感謝してるぐらいなんだぜ、こうして向き合うきっかけをくれたお前にな」
「逃げる……?」
「着けばわかるさ」
復唱する少年に対し、アシュヴァルは言い捨てるように答えた。