第四十六話 壮 行 (そうこう)
夜明け前の薄闇の中、少年とアシュヴァルは予定通りに部屋を出る。
二人で暮らしていた長屋のひと部屋は、昨日の間に引き払いを済ませていた。
必要最低限しか持たない彼の性格もあって部屋には余計なものはなかったが、それでも家財道具がまったくないわけではない。
アシュヴァルは「次の奴が使うだろ」と、家財一式を残していくことを選んだ。
長屋の管理者はいつ戻って来てくれても構わない、帰ってくるまでそのままにしておくと提案してくれたが、申し出を断ったのは彼なりの決意の表明なのかもしれない。
故郷に戻るという選択がアシュヴァルにとってどれほどの覚悟を必要とするものなのかを、わずかながら垣間見た気がした。
共に歩む道を選んでくれたことに対し、今自身ができることは何かと思い悩んだ結果、少年は言い付けを守って朝まで眠った。
深く眠って身体を休め、つらいものとなると見込まれた翌日からの道行きに備える。
一週間の眠りから覚めた直後に再び寝入ることができるかどうかは不安だったが、身体は正直なもので、寝台に身を横たえた瞬間にまどろみの淵へと引き込まれていた。
アシュヴァルは旅支度を一人で済ませてくれており、目覚めて顔を洗う少年が受け取ったのは、旅に必要な品々と数日分の食料や水の詰め込まれた肩掛け袋だった。
聞けば保存の利く携行食は、酒場の主人が餞別に用意してくれたものだという。
蹄人の商人の営む店を訪ねたあの日以降、アシュヴァルは用心棒兼便利屋の業務を休んでいたらしいが、完全に仕事を降りる旨を昨日のうちに宰領であるイニワに通してあると語った。
併せて自身の進退についても、彼が代わりに伝えてくれたことを少年は知る。
つまり二人が鉱山を発つことを知っているのは、酒場の主人と給仕、長屋の大家を除けばイニワだけということになる。
もちろん彼らづてに話のいっている者たちも少なくないだろうが、世話になった皆に何も言わずに出ていく不義理が気に掛かり、少年は部屋を出たところで足を止めた。
「本当に山のみんなにあいさつしなくていいのかな……」
うつむき加減に呟くと、立ち止まって振り返ったアシュヴァルがあきれたように口を開いた。
「まだ言ってんのかよ。いいか、ご丁寧にお別れ言ってる暇なんてねえんだって。それによ、もし会ったとしてなんて言うつもりだ? こちとら女に逃げられた莫迦野郎でござい、とでも自己紹介するか? いいんだよ、全部済ませたら改めて礼でもなんでもしにくりゃあよ。そんときはあの娘も連れてだ」
「……そうだね、必ずまた来る。そのときは——」
先を行くアシュヴァルに小走りで追い付き、隣に並んで歩き出す。
夜明けを待つこの時間、多くの商店の立ち並ぶ大通りに人けはほとんどない。
あるのは昨晩から路地裏に転がっているのだろう、酔いつぶれた者たちの姿ぐらいだ。
この町で暮らし始めた当初は自身同様に行き倒れているのかと目を疑ったものが、今ではすっかり見慣れた光景になってしまっていた。
もう水替えの仕事が始まっている頃だろうか、後方にそびえ立つ鉱山を振り返りながらそんな想像をしていたところ、アシュヴァルのけげんそうな呟きを聞き留める。
「ん? ——あいつ」
その視線の先を追って見たのは、町の出入り口である木製の門の下に立つ何者かの姿だった。
彼もまた近づく二人に気付いたのか、巨体をゆるりと巡らせる。
「イニワ……」
「行くのだな。話はそこの男から聞いている」
名を呼ぶ少年に対し、鉱山の宰領イニワはアシュヴァルを顎先で示しながら言った。
「うん、そうなんだ。せっかくいろいろ教えてもらったのに、急に辞めることになってごめん。でも、必ずまたあいさつに来るつもりだよ。そのときにはお金も——」
勢い込んで言うが、イニワは表情一つ変えることなく、普段通りの割り切った口調で答える。
「返す必要などない」
「で、でも、あんなに……」
「この山には誰一人、おまえから金を返してもらおうなどと思っている者はいない。おまえの言う——また、そのとき。それはいつのことだ。明日や明後日というわけではあるまい。おれたちには先のことなどわからん。明日には大鉱脈を掘り当て、大手を振っておさらばを告げているかもしれないのだ。おまえとおれたち、道は分かたれた。おまえの歩む道の先に訪れるまたとそのときは、おれたちの明日とはつながっていない」
「それは……うん」
元来、鉱山での労働は日傭の仕事だ。
多くが過分な夢を抱いてやって来て、幸運にも夢をかなえるだけの金を手にした者は去っていく。
中には志半ばにして去る者もいるが、それも一つの選択であることに違いはない。
半年の間には、去る者と来たる者の姿を幾人も目にしてきた。
明日になれば、去ることを選んだ自身の代わりも現れていることだろう。
イニワの言わんとするところを理解すると、胸の内にじわじわと心苦しさが広がっていく。
いつか戻ってきたそのとき、鉱山で働く顔ぶれは大きく様変わりしているかもしれない。
借りを返すどころか、礼を言うことすらできないかもしれないのだ。
「金を出したのはおれたち個々の意思だ。七日が経ち、もう出したことを忘れている者もいる。ここで働いているのはそういう連中だ。気に病む必要はまったくないが、それでも借りと感じることで足が鈍るのであれば……そうだな、その思いは誰か他の者に返してやるといい。あの娘でも、これから先の道でおまえが出会う——助けを求めている誰かにでもな」
「……うん」
確かな首肯で応じる少年に対して自らもうなずきを返すと、次いでイニワはアシュヴァルに向き直った。
「頼んだぞ」
「お前に頼まれる筋合いなんてねえよ」
憎まれ口をたたきつつも、アシュヴァルは黒褐色の縮れ毛で覆われたイニワの厚い胸板を拳で打つ。
「任せとけ」
「そうだ、アシュヴァル。それから——おまえも」
思い出したように言うと、イニワは順に二人を見やる。
「おれが故郷を取り戻した暁には、一度顔を見せに来てくれ。そのときは妻と子を紹介しよう」
「うん、必ず行く」
「ま、考えといてやるよ」
深くうなずく少年と肩をすくめて答えるアシュヴァルを満足そうに見詰めたのち、イニワはふと頭上に視線を投げる。
彼に倣って空を見上げた少年が夜明け前の薄暗い空に認めたのは、翼を広げて飛ぶ一人の嘴人の姿だった。
嘴人は輪を描くように上空を旋回する。
「あれは——ベシュクノだ……」
「見送りはおれだけではなかったか」
頭上を見上げて呟くと、イニワも珍しく上機嫌な声色で呟く。
続けて彼は中空に伸ばした指先で、鉱山の方角へ飛び去っていったベシュクノの描いた軌跡をなぞってみせた。
「いつか酒を飲みながら話していたのを覚えている。そうだ、確か……嘴人にとって巡る輪は輪廻と再生の象徴だと——」
「どういうこと……?」
「——再会を願う、この場合はそういう意味だろう」
イニワの答えを聞き、アシュヴァルは鼻を鳴らして悪態をつくように言い捨てる。
「……はっ、いけ好かねえ奴」
ベシュクノの飛び去った方向を見やる彼の表情は、言葉とは裏腹にどこか愉快そうな色をたたえていた。
「おし、行くか!!」
「うん……!」
鉱山に向かうイニワの背を見送ったのち、アシュヴァルは気を入れ直すように頬を張る。
彼のまねをし、少年もまた左右の手で自身の頬をたたく。
身体も本調子とは言えない。
十分な心の準備ができているとも言い難い。
それに何より、たとえ追い付いたとしてもローカを救い出せるとは限らないのだ。
だが、ここで立ち止まってなどいられないのは、この道が誰かに決められたものではないからだ。
過去も記憶も失い、何も持たず一人で荒野に放り出された自身が、初めて己の意志で選び取った道だと言ってもいい。
先に続くのが険しい道であることはわかっている。
一人で歩かなければならなかったとしたら、不安に押しつぶされていたかもしれない。
しかし、今は一人ではない。
誰よりも信頼できる人物が目の前を歩いてくれる奇跡に、少年はこの上ない頼もしさと感謝の念を抱いていた。