第四百六十話 輪 転 (りんてん)
両種の長と世話になった面々へのあいさつは、朝一番の出発に備えて昨日のうちに済ませていた。
最後の面会の折、チャルチウィトルとネフリティスは、旅の目的を果たした暁には必ず立ち寄ってほしいとそろって口にする。
そして東の嘴人と沼の鱗人、両種の関わり方がどのように変わっているかを確かめてほしいと語った。
大森林を抜けて大街道へ出るには、落羽の暮らす森の外れからそのまま南下するのが近道だと聞いている。
道を急ぐのであれば大樹の近くを通る必要はなかったが、その脇を通過する経路を取ることは四人の合意による決定だった。
次に見るのは、しばらく先になるだろう。
森の屋根を貫く大樹を目に焼き付けるように見上げ、エデンら一行は樹々の合間を進んだ。
樹上集落への受け入れ口である兌樹の近くを通る際、見慣れぬ人影を目に留める。
大樹の根元にあったのは、樹上集落の見物に来たであろう幾人かの鱗人たちの姿だった。
引率を務める大人以外の訪問客は幼い子供たちが中心で、初めて見る大樹と空を舞う嘴人たちを前に緊張と興奮を隠せずにいる様子だった。
自ら荷揚げ用の籠に飛び込んだ子供たちは、樹上に運び上げられる瞬間を目を輝かせて待っている。
一方で辺りを自由に走り回る子供たちを捕まえては次々と籠の中に放り込んでいくのは、金と銀の羽毛に身を包んだ二人の嘴人だった。
「ね、見て見て!」
「あ……」
マグメルの指し示した大樹の陰、そこに一人身を隠すようにうずくまる鱗人の少年の姿を目に留める。
樹上を見上げては小さく身を震わせる様子から、少年が高所に恐れを抱いていることが見て取れる。
マグメルが「うふふ」と含み笑いを浮かべて見上げると、カナンはその頭を無言で押し込んだ。
このままでは、存在を看過された少年が一人地上に取り残されてしまうのではないか。
そこに思い至ったエデンが大樹に向かって一歩を踏み出そうとしたとき、背の高い一人の嘴人が少年の前に進み出る。
膝を突いた嘴人——トラトラツィニリストリは自らの頭部から褐色の飾り羽を一本引き抜き、膝を抱えてうずくまる少年に向かって差し出してみせる。
驚きと喜びとが入り交じった声を上げそうになるところをそっと制し、トラトラツィニリストリは真新しい鱗の包む小さな手を取った。
荷物用の籠に向かって歩き出す両者の背を眺めれば、変化は着実に始まっていることが実感できた。
◇
大森林を抜けたエデンたち四人は、久しぶりの石畳の感触を足裏に感じながら、大街道を東に向かって進んでいた。
森の屋根を突き抜けてそびえる八樹と、その中央にそそり立つ央樹は、街道からでも堂々たる威容をのぞかせている。
大街道が大陸の東西を貫く形で通じる以前から、八と一の大樹が旅をする者たちの道標であったという話が強く実感できた気がした。
この地を訪れて最初に目にしたのは、東の嘴人たちと沼の鱗人たちの相争う光景だった。
同じ人同士が傷つけ合う様を目の当たりにした際の衝撃は、今でも瞼の裏に鮮明に焼き付いており、たとえ忘れようと努めても忘れることはできないだろう。
だが、運命的な巡り合わせと皆の力添えを経て、両種の間に和を結ぶという、自身でも予想だにしなかった結末を呼び込むことができた。
一人で成し遂げられた功績などとは到底言えず、いつかのシオンの言葉を借りるなら、そんな状況自体が「偶然の上に偶然を塗り重ねたような」奇跡であったことも理解していた。
傍らを歩くシオンを足を止めることなくちらと見やれば、彼女は依然として不機嫌そうな表情をたたえている。
隠者の庵で身を寄せ合って暮らす中、シオンは竜の姿が描かれた書物に強い興味を示した。
それ以外に何が記されていたのかと閲覧を熱望する彼女だったが、落羽がどれだけ部屋の中を引っかき回してみても、書物が発見されることはなかった。
「貴方の責任です。貴方がしっかりと管理しておかないからこうなるんです」
「じ、自分……?」
いわれのない怒りを向けられて戸惑うエデンに対し、シオンはいら立ちとやり切れなさの入り交じった複雑な表情で嘆息した。
「悉く書を信ずれば、則ち書無きに如かず——です。私は私自身の目で見て、耳で聞いて、世界に触れるだけの話です」
自らに言い聞かせるかのように語る彼女だったが、ぶぜんたる面持ちからは不納得の意が強くにじみ出ているように見えた。
エデンが抱く後ろめたさはそれ一つではなかった。
いまだ皆に伝えられていないことが、伝えるべきか否かを思いあぐねていることがもう一つだけある。
それは、岩の大地に地上絵を刻むという手段が、ローカの引いた導きという名の道の上に成り立っていたという事実だ。
一度それを口にしてしまえば、戦にはやる戦士たちの心を静めたマグメルの歌も、シオンの見せた知を志す者の不退転の覚悟も、戦場に響くカナンの切口上も、全てがローカの思惑通りであったと認めてしまう気がしたからだ。
ローカが力を分け与えてくれなければ得られなかった結果であることに疑いの余地はないが、そこに至る皆の勇気ある行動を、導きのひと言で片づけたくなかった。
東西の都をつなぐ大街道を一歩一歩東に向かって進みながら、ここ数日の間に起きた信じられないような出来事の数々を思い返す。
ふと脳裏をよぎるのは、本当に争いは終わったのだろうかという不安の念だ。
長きにわたって命のやり取りをしていた事実は、戦の終焉を迎えたとしても完全に消えるものなどではなく、その生み出した遺恨と傷痕が、人々の心と大地に刻まれ続けることは身をもって学んでいる。
生と死は巡る輪廻の環と捉える嘴人たちと、生と死を繰り返す宿命を背負った鱗人たち。
不可分である生と死の間に生きる両種だからこそ、潔いまでの切り替えの早さで新たな道を歩むことができるのかもしれないが、たとえば自分が同じ立場であったならどうだろうと思いをはせる。
もしも大切な人を失って復讐を誓う立場に置かれたとして、争いは終わったのだから目の前の仇を許せと強要され、憎んでいた相手を本心から受け入れることができるだろうか。
その段になってみなければ確かなことは言えないが、「許せる」と自信を持って断言することはできない。
嘴人たちの中にも、鱗人たちの中にも、きっと心の底から和平を受け入れられない者はいるだろう。
だが、誰も彼らを責めることはできない。
同じものを異なる角度から眺めていた者たちが、これからは同じものを同じ方向から見ていくようになる。
同じものを見て、互いの違いを認めていく段階なのだ。
言葉を交わしながら先を歩むマグメルとシオンの背中を眺めつつ、エデンは腰につるした新たな道具に触れる。
沼の鱗人の長ネフリティスの持ち物であったそれは、鱗人たちの身から剥がれ落ちた鱗甲を並べて貼り付けた小ぶりな盾だ。
ネフリティスが餞別の品として贈ってくれたのは、自らの愛用していた丸盾だった。
「盾の裏表——か」
以前、カナンが口にした言葉を思い出す。
真実を正しく捉えるためには、物事を一面だけでなく表と裏から見定める必要がある。
この地で何が起きているかを知りたいと願う自身に対し、彼女はそう教えてくれた。
だが、実際に大局を見極め、真実を捕まえるのは、盾の裏表を見極めるよりもずっと困難だった。
ひと目でどちらが表、どちらが裏なのか判別の付く盾と違い、真実はもっと捉えどころのない姿をしている。
それは裏も表も上も下もない、球形に近い形をしているのかもしれない。
依然として包帯の取れない指先で、エデンは中空に円を描く。
光の当たる側を表、影になる部分を裏とするのか。
あるいは外側が表で、目に見えない内側が裏か。
どちらにしろ、裏も表も観測する者によってたやすく入れ替えられてしまうものなのかもしれない。
「あ!! あれ見て!!」
翡翠色をした飾り羽根を日に透かしながら先を歩んでいたマグメルが、何かに気付いて立ち止まる。
頭上に向けて突き上げられた羽根の先を追ってエデンが見たのは、悠々と大空を舞う五人の嘴人の姿だった。
楔型の編隊を組んで飛ぶ嘴人たちの先頭にあるのは、衛士長トラトラツィニリストリだろう。
その後方に赤色と青色、さらに後方に金色と銀色が続く。
五人の嘴人たちはエデンたちのはるか上空を、大きく円を描いて三回ほど旋回し、そのまま大樹の方向へと飛び去っていった。
「おーい!! おーい!!」
跳び上がって手を振っていたマグメルが、ふと振り返ってシオンに尋ねる。
「さよなら、ってこと?」
「はい、あれは——」
「巡る環は輪廻と再生の象徴……再会を願う——」
頭上を見上げてなお一人物思いにふけっていたエデンは、シオンが答えるより早く、独り言ちでもするかのように呟いていた。
「へー!! じゃあじゃあ、また会おうねってことだ!!」
エデンの呟きを受け、マグメルは感動をあらわにを再び頭上を仰ぎ見る。
その隣まで進み出ると、カナンもまた軽く目を細め、嘴人たちの飛び去った方向に視線を投げた。
「我らが救い主殿もなかなか博識じゃないか」
大げさに感心してみせるカナンの傍らでは、頬を膨らませたシオンが不服げに眉根を寄せている。
お株を奪われた、そう判断されてしまったのだろうか。
思案の淵からようやく我に返ったエデンは、はぐらかすように言い訳の文句を並べ立てた。
「あ……! ごめん! ……ち、違うんだ! いや、それは違わなくて——」
第五章 「嘴人と鱗人 篇」 〈 完 〉
あとがきと、大切なおしらせ
『百从のエデン』第五章、「嘴人と鱗人篇」を最後までお読みいただきまして、誠にありがとうございます。
念願だった鳥類と爬虫類をモチーフにしたキャラクターたちの物語を描くことができ、感無量の思いを噛み締めています。
累計110万文字を突破した本作、物語はようやく折り返しを迎えたところあたりです。
初めての小説執筆と投稿は戸惑いの連続でしたが、どうにかこうにか、やっとこさっとこ書き続けてきた二年間でした。
ここから続く第六章、第七章のプロットは完成しており、さらに先の八章、九章、十章、物語の結末である終章の構想も明確に浮かんでいます。
ですがこれより先、物語は佳境に突入していき、ここに至るまでに張り巡らせていた数多くの伏線を回収し、ひそかに打っておいた布石を生かしながら進めるフェーズに入ります。
加えて第六章は、過去最大数の登場人物が入れ代わり立ち代わり入り乱れるお話で、文字数も35万文字ほどに達する見込みです。
これまでのように執筆しながら投稿という形式では、物語の進行、展開、設定などに重大な齟齬を生じさせかねません。
そこで物語を不具合なく進めるため、まずはプロットに従って最後まで本文を書き上げてしまおうと思います。
粗稿が完成したのち、改めて全文を清書し、そこから一話一話推敲しながら投稿を行う予定です。
なにぶん長いお話になりますので、書き上げるまでにどのくらいの時間を必要とするのかは皆目見当が付きません。
半年か一年か、もしかするとそれ以上の期間が空いてしまう可能性も多分にあります。
それから私事で恐縮なのですが、ここまで一心不乱に、なりふり構わず、何かに突き動かされるように書き続けてきたため、作者の体にもちょっぴりガタがきています。
少しだけ、ほんの少しだけ、お休みを頂戴します。
もちろんここで断筆しようというわけではなく、あくまで休筆です。
——と言いつつ明日になれば筆を握っているかもしれませんが、これまでのようなハイペースで書くことは、もう難しいのかもしれません。
失われた半身を求める少年の旅は、110万文字を迎えてようやく道半ば。
三人の少女を旅の仲間に加え、幾多の出会いと別れを経験し、少しずつ「人」になってきたのではないでしょうか。
『百从のエデン』は第五章をもって「第一部」の結びとし、ここで差し当たっての区切りとして「完結」の形を取らせていただきます。
ここまでお付き合いくださった皆さまにおかれましては、差し支えなければブックマークをお外しにならず、来たる再開の時をお待ちいただければ幸いです。
新たに本作を見つけてくださった未来の読者さま、これを読んで残念に思わせてしまったならごめんなさい。
『百从のエデン』は「私自身が本当に面白いと胸を張って言える物語が作りたい」、そして「百人に一人の同じ好きを共有できる誰かに読んでもらいたい」と一念発起して書き始めたお話です。
その思いについては、投稿から二年を経た今でも一切変わっておりません。
冒頭ひと文字目を書いた日の興奮、アイディアは浮かぶのに書くことができなくて眠れなかった夜の苦悩、初めてウェブ上にアップした時の緊張、ブックマークが「1」になった瞬間の感動など、創作にまつわるすべての喜びを忘れることなく、必ず最後の一文まで書き切ることをお約束いたします。
それでは再会の日まで、少しばかりのお別れです。
感想や評価などいただければ作者冥利に尽きます。
ひと言お声を聞かせてくださると、とてもとても幸せです。
本当に、ありがとうございました。
またお目にかかれる日を楽しみにしております。
2024年10月6日、世界動物の日——の次の次の日に。
葦田野 佑




