第四十五話 再 起 (さいき)
少年が食事を終えるのを待ってアシュヴァルが語ったのは、いかにして商人の向かった先を知るに至ったかだ。
商人の雇う荷車の輓夫に金銭を握らせ、次に向かう目的地と出立の日取りを聞き出してくれたらしい。
件の商人がこの町を発ったのは、ローカを買い取るために店を訪ねた日の翌々日。
南の山の中にあるという彪人の集落には、徒歩で十日かかるとはアシュヴァルの弁だ。
であれば出発から五日が経った現在、ローカを連れた商人たちはいまだ買い手の元へたどり着いていないことになる。
起き抜けのおぼつかない頭で巡らせた計算に、小さく安堵のため息を漏らす。
だが、そんな少年の心の動きを読んでか、アシュヴァルは手の中で突匙をもてあそびつつ、険しい顔で告げた。
「そいつはどうだろうな。歩きで十日は、あくまで並足での話だ。蹄人って奴らはよ、いろんな種の中でも飛び抜けた体力と持久力の持ち主だ。たとえ荷車牽いててもだ、奴らが本気出したら、十日の道のりだって一週間で着いちまう可能性もある。それに雇い主はあの食えねえ男だ。夜通し休みなしで歩かせねえとも限らねえぞ」
「じゃ、じゃあ……!! もう到着してる——かも……」
目を見開き、卓に身を乗り出すようにして呟く。
目的地への到着、それはローカの身柄がすでに次の買い主に渡っているかもしれないことを意味する。
平静を失い、動揺を隠せずにいる少年に対し、アシュヴァルはあくまで淡々とした口調で続けた。
「好きな食いもん、お前は最初に食う口か? それとも後生大事に最後まで残しておく口か? 俺は——いの一番に食っちまう派かな」
「え……? あ……そ、そんなっ——!!」
何をおいても不老不死を求める買い主がいて、それを実現する手段を入手したとしたなら、次に取る行動は一つしかない。
動揺のあまり、椅子を後方に跳ね飛ばしながら立ち上がる少年に対し、アシュヴァルは手にした突匙を突き付けながら続けた。
「お前の願った通りの結果にはならねえかもしれねえ。全部が全部手遅れでよ、結局なんも手に入れられずに、悔しさと悲しさだけ引きずって帰ってくることになるかもしれねえぞ。お前はそれでも——」
「行く」
卓の上に両手をつき、さらに深く身を乗り出して短く言い放つ。
「行くよ!! それでもっ——!!」
アシュヴァルは小さな鼻息を漏らすと、手にした突匙で倒れた椅子を指す。
続けてぞんざいな手ぶりをもって、「座れ」と示してみせた。
指示通り、倒れた椅子を引き起こして掛け直せば、彼はあきれとも諦めともつかぬ口ぶりで言った。
「だよな、そうくるよな」
「アシュヴァル……?」
「くくく、あははは——」
何が何やらわからない少年の見詰める中、アシュヴァルは肩を震わせて笑い、やがて吹っ切れたように言い放った。
「——仕方ねえ、俺も行くぜ」
「え……」
「久方ぶりの里帰りだ。錦を飾るってわけにゃいかなかったがよ、まあいい頃合いなんじゃねえかなって考えてたところだ。いいぜ、俺が連れてってやるよ」
「い、いいの……?」
数か月を共に暮らす中で、故郷についての話題が彼にとって好ましいものでないことは知っていた。
当初はその理由に想像が及びもつかなかったが、今ならばなんとなくその気持ちを思い見ることができるような気がする。
ローカの来歴が複雑であるように、アシュヴァルにも他者に言いたくない、言及されたくない事情があるのだろう。
「ああ、いいんだ」
答えて空の皿に手にした突匙を放り込むと、彼はかすかに声の調子を落として言った。
「後出しで悪いんだけどよ、お前に賭けさせてもらった」
「か、賭け……?」
「ああ。目を覚ましたお前が寝てる間にあったこと全部知って、それでも折れずにあの娘のこと追いかけるって言うんなら——俺も腹くくるってな。けど、お前があの娘のこと諦めて、何もかも忘れて生きるってんなら、俺もそれに付き合うつもりだった。もちろん俺はそっちを選んだお前を責めない。今みてえに……ちょっと前みてえに、だらだら暮らしていこうって決めてた。あのまま起きねえってんなら、起きるまで待ちゃあいい。また全部忘れちまうようならよ、もっかい一から始めりゃいいやってな」
「それが——賭け……」
「ま、そういうこった。お前がどっちを選んでも、どんなになっちまっても一緒にいてやるって——それだけの話だ」
「アシュヴァル……」
感極まって言葉を失う少年に対し、思い出したように言い添える。
「ああ、あれだ。さっきの話だけどよ、奴らがもう着いてんじゃねえかって話。一応手は打ってあるんだ。お前なら絶対に追い掛けるって言うと思ったからよ」
唇の端をつり上げた意地の悪い笑みを浮かべ、アシュヴァルは指先で何かをはじき上げる手ぶりをしてみせる。
「荷車牽いてる途中でよ、足か腰かでも痛くなるように幾らか握らせておいたんだ。そこそこ高くついたが、背に腹は代えられねえからな」
くつくつと喉を鳴らして笑うアシュヴァルだったが、少年にはその意味がわからない。
不思議そうなまなざしにも「お前は知らなくていい話だ」と短く応じ、彼は話を切り上げた。
「ん、なんだよ?」
依然としてもの言いたげに見詰める視線を受け、アシュヴァルは不服そうに口を尖らせて言う。
「あれか、勝手に賭けしてたことに怒ってんのか? だからそれに関しちゃ悪かったって先に謝っただろ」
「ち、違う……違うよ! それはよくて——でも……」
顔の前で両手を振って否定の意を示すと、持ち上げた手をゆっくりと下ろしながら続ける。
「……どうして自分のためにそこまでしてくれるのかな——って。前にも聞いたけど——アシュヴァル、もう一度聞いていい……?」
尋ねる少年から露骨なしぐさで視線をそらしたアシュヴァルは、居心地悪そうに頭をかきむしり、投げやり気味な口ぶりで答える。
「あー、何度も言わせんな。あれだ、ほら——気まぐれだって言ってんだろ」
「き、気まぐれ……」
復唱する少年の顔を横目でちらりと一瞥し、物憂そうに嘆息したのち、アシュヴァルは観念したかのように続けた。
「……あー、相変わらず面倒くせえ奴だな。わかったよ、一度しか言わねえからよく聞いとけ。——連れ、だからだ。これで満足か?」
顔を背け、照れくさそうに言うアシュヴァルにいち早く反応したのは、少年ではなく、長机に腰掛けて成り行きを眺めていた給仕だった。
声を抑えてくすくすと笑っていた彼女だったが、その声は次第に大きくなっていく。
「……ふふふ、あはは——にゃはははっ!! ——ひー、おかし!」
こらえ切れなくなったのだろう、彼女は左右の脚をばたばたと上下させたかと思うと、ついには腹を抱えて机に突っ伏してしまった。
「うるせえな!! 何がおかしいんだよっ!!」
「——にゃはは、ごめんごめん!」
アシュヴァルは卓を両手で打って立ち上がり、涙を拭いながら口先だけの謝罪をする給仕をにらみ付ける。
後ろ頭を乱暴にさすりながらいら立たしげな舌打ちを一つすると、立ったまま少年を見下ろした。
「そうと決まれば悠長に構えてる暇はねえ。出発は明日の朝一番、日の出よりも前に発つぞ。それでいいな——?」
戸惑いつつも繰り返しの点頭で応える少年を見据え、アシュヴァルは念を押すように続ける。
「お前は病み上がりだ。藪医者の見立てじゃ相当疲れがたまってるって話でよ、それに関しちゃ俺も同意見だ。元気になるのを待ってやりてえのもやまやまだが、そうもいかねえのはお前もわかってるだろう。道中はそれなりにつらいものになる。今のうちに覚悟決めとけ」
「う、うん……!!」
力強くうなずいてみせると、アシュヴァルもまた満足そうに首肯を返してくれる。
「お前は朝まで眠って出発に備えろ。旅支度は俺に任せておけばいい」
次にアシュヴァルは、酒場の主人と長机に伏したままの給仕へと視線を移して言った。
「——ってなわけだ。こいつともども世話んなったな。いつ帰ってこられるかわかんねえからよ、付けにしといた分、耳そろえて払わせてもらうぜ」