第四百五十四話 遺 戒 (ゆいかい)
樹上集落を後にした四人が向かったのは、数日前に二種が竜の名を巡って決戦を繰り広げた岩の丘だった。
この後は鱗人たちの暮らす集落を尋ねる予定であり、それならば両種の集落の中間に位置する岩場を通りたいと希望したのはエデンだ。
自らが地上に描いた絵を確認しておきたい気持ちに加え、戦の痕跡を改めて目に焼き付けておきたいという思いからの提案だった。
さらに樹上に姿のなかった衛士長トラトラツィニリストリの所在がそこにあると聞けば、立ち寄らない選択肢はなかった。
岩の丘にあったのは、嘴人の衛士たちと鱗人の兵士たち、両種が協力して地上絵を保護する光景だった。
描かれた形状はそのままに、大地をうがって引いた線をより深く掘り込み、別に用意したであろう色の異なる土をまいている。
聞けば、岩の大地に描かれた竜の絵を可能な限り損なうことなく後の世に残すための工夫なのだという。
驚いたのはその手法を提案したのはシオンらしく、彼女は作業の進捗を眺めながら何やら助言まで行っていた。
落羽の所有する書物に描かれたそれを写し取ったものとはいえ、自身の描いた拙い絵がここまで丁重に扱われていることに、気恥ずかしさを覚えずにはいられない。
しかしながらその存在が嘴人たちと鱗人たちが力を合わせる契機となるのであれば、得難い喜びであることに間違いはなかった。
「あ!!」
声を上げて丘の下を指さすマグメルの視線を追えば、そこに舟のようなものに何かを乗せて運ぶ者たちの姿を見て取る。
数十人が協力して運んでいるそれが巨大な石とわかると、エデンたち四人も木製の舟を丘の上に押し上げる作業を手伝った。
石を運ぶ嘴人たちの中には衛士長トラトラツィニリストリに加え、衛士である赤色のトレトルと青色のセクトリ、鱗人たちの中にはカプニアス、オフィオイディス、ヴァサルティスの三人の兵士長の姿もある。
舟を丘の上まで押し上げたのちは、細く長い巨石を転に移して運んでいった。
皆で石を押し牽きし、進むたびに丸太棒を後方から前方にかませ直す。
向かう先にはあらかじめ穴が掘られており、斜面を滑らせる形で基部を埋めると、石の上部に縄を掛け直して引き起こす。
一時間以上の時間をかけて丘の中央に巨石が直立すれば、周囲を囲む一同から拍手と感嘆の声が漏れた。
エデンにはどうなれば完成であるのかはわからなかったが、作業がいったんの区切りを迎えたであろうことは、皆の様子から見て取れた。
嘴人たちの間から衛士長トラトラツィニリストリが、鱗人たちの間からは兵士長カプニアスが進み出る。
二人はエデンの面前で立ち止まると、まったく同時にその場にひざまずいた。
膝を突いてちょうど自身と目の高さが合う長身と巨躯の二人に対し、エデンは慌てて立ち上がるように促した。
「そ、そんな——! た、立って!!」
「救い主殿がそう申されるのであれば」
答えて立ち上がり、トラトラツィニリストリは続いてひざまずこうとする嘴人たちを翼をもって制する。
同様に立ち上がったカプニアスは、カナンに向かってちらりと一瞥を送った。
縦に細く長い瞳孔を有したその瞳が、わずかに笑みを映したように見受けられた。
「また救い主……」
「いいじゃん! それだけのことしたんだから!!」
呟くエデンの腕を取り、嬉々とした表情を浮かべるのはマグメルだ。
「そう——なのかな」
「そうそう!!」
密着するほど身を寄せ、目を細めて見上げる彼女に、小さな首肯で応える。
「これでどうだろうか?」
シオンに向かってそう尋ねたのは兵士長カプニアスだった。
皆で立てたばかりの巨石に触れながら彼女は言う。
「立派ですね。良い出来だと思います」
肯定的な言葉に、作業に当たっていた周囲の皆から再度感嘆の声が漏れる。
互いの手や翼を取り合う者、ねぎらい合う者などそのあり方はさまざまだったが、皆の見せる反応が好ましいものであることは確かだ。
状況にまったく見当の付かないエデンに、シオンがこれまでのあらましを端的に語ってくれる。
「貴方が眠っている間のことです。一度荷物を回収に戻った際、沼の皆さんから相談を受けたのです。あの日の——貴方が絵を描いたあの日のことを忘れずにいたいと。ですので絵を可能な限り保存していくための方法と、碑を立てることを提案させてもらいました」
「碑——」
耳慣れない言葉を確かめるように呟き、エデンは改めて自身も協力して立てた巨石を見上げる。
「思いも寄らぬ着想だ」
トラトラツィニリストリが、自らも石を見上げながら続ける。
「我ら嘴人、後の世での再会を願って死出の旅路へと送り出すことはあれど、死者を弔うことはせん。残された者が足を引けば、命を得て生まれ変わろうとする者の妨げと考えるからだ。死を悼む者の心はわからぬ。わからぬと思っていたが——過ぎ去った昨日を思い出し、来たるべき明日に心を飛ばすことも存外悪いことではないのかもしれないと思える」
トラトラツィニリストリの言葉を受け、次いで兵士長カプニアスも巨石を見上げて口を開いた。
「よくわかろうというものだ。我々は死を恐れぬ。強き戦士と相まみえることこそ兵のよって立つところだからだ。幾度なく訪れる死を受け入れて今日という日を生き長らえてはいるが、明日にはもの言わぬ石塊になるやもしれんはかなき身と知る。死して戦場に屍をさらすもまた戦士の定め、そう信じて疑うことのなかったこの我が——恐れている。主らの教えてくれた竜の姿を忘れてしまうことを。子らの世代が、そのまた子らの世代が、再び我らと同じ過ちを繰り返し、事実を己の都合のよい形にねじ曲げてしまうことをな。だが——」
カプニアスは規則正しく並んだ鱗に覆われた腕で巨石をなで、大地をうがって描かれた絵に視線を巡らせた。
「——この碑と、救い主殿の描いた絵がこの地にある限り我々は忘れん。皆が痛みを分け合い、手にすることのできた唯一無二の真実を」
「ああ」
先ほどまでの怯えに満ちた表情から一変、にこやかな微笑みをたたえたカナンが、カプニアスの腕に触れて言う。
「足は大地を踏み締め、嘴は天を指す。なかなかもって君たちにふさわしい道標じゃないか」
碑を眺めて言う彼女に、シオンは同意を示すように言い添えた。
「新たな歩みの始まりを記す里程標であると同時に、犯した過ちを埋葬するための墓標——といったところでしょうか」
シオンの語る言葉に、トラトラツィニリストリとカプニアスを始め、岩の台地に集った皆がそれぞれ思いを巡らせているのが見て取れる。
この場に居合わせるのは、わずか数日前までは互いに命のやり取りをしていた者たちだ。
それが今はこうして同じ理想を抱き、足並みをそろえ、巨石の碑を立てるという一つの作業を成し遂げるに至った。
エデンも皆に倣うようにして屹立する巨石を見上げ、次いで自らの描いた地上絵を眺める。
当然だが水平に見るそれは線の集合でしかない。
地上からでは、それが何を表した絵であるのか、描いた当人でさえもまったくもってわからなかった。
マグメルは歌声をもって戦にはやる皆の心を静め、シオンは刃を喉元に突き付けられてなお己の意を貫いてみせ、カナンは進むべき道を切り開いてくれた。
三人の作ってくれた時間と道の中を歩んでいたあのとき、なすべきことを見出せずにいた。
竜の姿を目にした際の驚きをそのまま感じてほしい。
シオンが決意を込めて断言してみせたように、言葉以外の方法で伝えることができればと強く願う気持ちはあった。
落羽の書物を食い入るように見て、その全体像を脳裏に焼き付けていたとしても、頭の中にあるだけではなんの意味もなさないのだ。
一歩一歩、二人の長の元に歩んでいたエデンは、ふと自身の知覚がはるか上空へと引き上げられる感覚を覚える。
瞬間、彼女が——ローカが、力を貸してくれているのだと理解した。
絵を描けと導いたのは、他でもない彼女だった。
「どこかで見ているの……?」
小さく呟いて周囲を見回すも、岩の台地に身を隠す場所といえば数か所しかない。
あのときと、地上に竜の絵を描いたときと同じように瞑目してみるも、大地をはるか上空から見下ろす俯瞰の視点は得られなかった。
「あ——」
ふと気配のようなものを感じ、つい先ほど立てたばかりの碑の裏をのぞき込む。
白皙の肌と痛んだ金糸の髪を持つ少女が膝を抱えて座り込む姿を思い浮かべるが、そんなところに追い求める彼女の姿などあるわけなく、思い描いていた面影は乾いた風に払われるように霧消する。
「なになに!? なんかあるの?」
遠慮なく背に飛び乗ったマグメルもまた、肩越しに岩陰をのぞいている。
突然の行動を不可解そうな面持ちで見詰めるカナン、あいまいな表情を浮かべて静かに見据えるシオンに対し、エデンは努めて平静を装った上で「なんでもないよ」と小さく首を振った。




