第四百四十八話 九 子 (きゅうし)
「そいつが竜だよ」
「これが……」
開かれた書物の頁に描かれた絵を目にし、鎚か何かで思い切り後頭部を打たれたような衝撃を覚える。
言うべき言葉の見つからないエデンは、しばし我を忘れて食い入るように絵を見詰め続けた。
「……これが——竜」
今一度自分自身に言い聞かせるように口にし、書物に描かれた一点の絵に視線を落とす。
芸術に造詣があるわけではないが、それが決して卓越した画技によって描かれているものでないことは見て取れた。
事実をありのままに映し出そう、描いた者のそんな思いを感じるような筆遣いだった。
呟くエデンに対し、落羽は自らも書物に描かれた絵を見下ろして口を開く。
「神話や伝説にあっては神々を背に乗せ、おとぎ話に姿を現しては人々の安寧を脅かしもする。気まぐれに人を襲うこともあれば、時に高度な思考をもって啓示を与えもする。東のだの沼のだのが言う竜ってやつは、その類いの化生のものさ。自分らに都合のいい竜をそれぞれ作り上げた挙句、あいつらが狙ってる、こいつらが欲しがってる——だなんて騒いでりゃ、世話のない話だよ」
「嘴人たちの竜と、鱗人たちの竜は……違う——?」
恐る恐る尋ねるエデンに対し、落羽は嘴の端をつり上げて皮肉げな口ぶりで答える。
「そりゃそうさ。守り神としての竜なんてもんは最初から存在しやしないんだからな。竜は嘴人の神なんかじゃないし、もちろん鱗人の神でもない。自分自分がてんでに思い描く、理想の神の概念に与えられた名辞に過ぎないのさ。こうあってほしいって願望や理想なんかをこう——こね繰り回して、俺たちだけに優しい、俺たちだけの神さまのでき上がりだ。こっちもこっちなら向こうも向こう。仲が悪いのかいいのか、わからなくなるよな」
「で、でも……!!」
書物に描かれた絵に、改めて視線を落とす。
落羽はそれを竜だと語り、直後に竜は存在しないと前言を撤回してみせた。
竜がいないのであれば、そこに描かれた絵が竜でないのなら、彼はなぜそれを見せてくれたのだろう。
そんな疑問を抱くが、つい先ほど彼の口から語られた言葉を思い出す。
落羽はこの一冊に真実が記されていると言っていた。
真実を皆に伝えるために旅先から故郷へ取って返し、結果として片翼を失うこととなった。
もしも彼の言うように本当に竜が最初からいないのだとすれば、存在しないことこそが彼が伝えたかった真実ということになる。
「じゃあ、これ——」
書物に描かれた絵を見下ろしながら呟くと、落羽は不足していた言葉を補うように続けた。
「守り神としての竜はいない。いつでも見守ってくれて、無条件に愛を注いでくれて——そんなちょうどいい神さまなんていないって話だよ。そうさ、竜は神さまなんかじゃない。神話やおとぎ話に登場する空想上の生き物でもな。ましてや象徴でもなければ、偶像でもない。竜は竜であって、それ以上でもそれ以下でもないんだ」
「それなら、竜っていうのは……」
守り神でないのならば、竜とはいったいなんなのだろう。
まさか争いを助長する破壊の神か、それとも人を死にいざなう死の神だとでもいうのだろうか。
続きを促すように見詰めるエデンに、落羽は特に焦らすわけでもなく、もったいぶるわけでもなく、淡々とした調子で答えを口にした。
「竜は——かつてこの世界に生きていた一つの種だ。腹を空かせては飯を食い、眠くなってはあくびをする。なんてことはない、俺たちと同じ限りある命を抱え、老いと病とに怯えて暮らしていた、ただの生き物さ。お前さんのようにあれこれ悩んで、俺みたいにぶつくさ言いながら生きていたかどうかは知らないが、少なくとも自分が死んだ後の世のことなんざ考えてる余裕なんてなかっただろうな」
思いも寄らなかった落羽の言葉を受け、無言のまま三度書物の頁に視線を落とす。
「竜は神さまなんかじゃないが、俺たちの語り継いできた出任せにも一つだけ間違いじゃない部分がある。そいつはな、竜が俺たちの祖ってところだ。かつてこの世界に存在していた竜は、永い永い時をかけて姿を変えていった。自分で選んだのかそうせざるを得なかったのか、それともたまたまなのかは知る由もないが、熱抱く身体を羽毛で包んだ者たちが嘴人の祖となり、冷たき鱗甲で身を覆った者たちが鱗人の祖となった」
「な、なら嘴人と鱗人は……どっちも——」
描かれているのは、その身に嘴人たちと鱗人たちの特徴を兼ね備えた生き物だ。
確かに羽毛に覆われた身体と翼は嘴人の、鋭い歯を備えた顎と太く長い尾は鱗人によく似ている。
詰め寄るエデンを正面から見返しながら、落羽は冷ややかな笑みを浮かべて言う。
「血を分けた兄弟ってやつだ。しばらく会わないうちに互いの顔も忘れちまった、不義理な兄弟さ」
「み、みんなはこのことを……!? どうして——それを知ってたら、あんな……」
「そりゃ無駄だ」
落ち着きなく言い立てるエデンを、落羽は短い言葉で切り捨てる。
「もう忘れちまったのか? 大発見を伝えようとして集落を放逐された聡明な若者の話を。真実を語るにも、受け入れるにも、俺たちはまだ若過ぎるのかもしれない。取り合う必要もないのに親の愛と関心を独占しようとする——幼年期真っ最中の俺たちにはな」
「そ、そんな——でも……」
「そんなもんさ」
がくぜんとして呟けば、落羽は諭すように応じる。
そのままうつむくように、エデンはじっと絵に視線を落とす。
「竜は滅んだ。主である神の怒りに触れて焼き尽くされたとも、終わらない冬の中で永遠の眠りに就いたとも語られているが、本当のところは誰にもわからない。一つ言えるとしたら、明日は我が身ってとこか。同じ滅ぶなら、俺は森の中で静かに逝きたいもんだ。……暑いのも寒いのも——どっちもごめんだよ」
落羽は肩をすくめて物憂そうに言い捨て、書物に視線を落とすエデンを横目に見やる。
「気の済むまで見ればいい」
皮肉げな笑みを浮かべて呟き、エデンの手元を提燈で照らし続けた。




