第四百四十五話 一 陽 (いちよう)
羽毛の包む翼と鱗甲の覆う手とを取り合う二人の長を前に、両種の戦士たちは改めて自らの置かれた状況を受け止め始めていた。
周囲からまばらに上がる声は、やがて大きな歓声となって岩の大地に響き渡る。
次いでエデンが目にしたのは、にわかには信じ難い、世にも不思議な光景だった。
大地に溝を刻むようにして描いた地上絵、それを見るために嘴人たちが次々と空へと舞い上がる。
東の嘴人の長チャルチウィトルが沼の鱗人の長ネフリティスにしてみせたように、武器を放り出した嘴人たちが鎧を脱ぎ捨てた鱗人たちを抱えて飛ぶ姿があちらこちらにあった。
身体の大きな鱗人を持ち上げるため、嘴人たちが数人がかりで力を合わせる姿もそこここに見られる。
張り詰めていた緊張が解けるのと同時に、エデンは突として涙腺の緩む感覚を覚えていた。
瞼の奥が熱を帯びていくが、上を向いて涙がこぼれそうになるのを懸命にこらえる。
眼前で行われる夢かと見まごうような光景を、しっかりと目に焼き付けておきたかったからだ。
空から絵を目にしたのちに地上に下りてきた者たちは、一様に信じられないものを見たような表情を浮かべていた。
だかその顔に大地を刻んで表されたそれが虚偽と疑うそぶりは見て取れず、皆が描かれた真実を受け入れようとしている様子が見て取れる。
余すところなくとはいえないかもしれないが、自身の覚えた感動と衝撃とをありのままに描けたことを、エデンは絵を目にした戦士たちの姿から受け止めていた。
「こ、これで——よかったのかな……」
脱力のあまりその場に座り込んでしまうエデンの元に、二人の少女が駆け寄ってくる。
傷だらけであることに構うことなく、勢いよく飛び付いてきたのはマグメルだった。
「エデン、エデン!! やったね、よかったね!!」
「……みんなのおかげだよ」
頬擦りを繰り返す彼女の耳元に、感謝の言葉を告げる。
続けて頭に振れようとするが、持ち上げた掌は血と泥にまみれている。
取り付くマグメルの肩越しに行き場をなくした手を眺めながら、もう一度感謝の言葉を口にした。
「ありがとう……マグメル」
その歌声が心を打つものであることは以前から知っていたが、まさか戦にはやる者たちの耳に届き、あまつさえその武器を下ろさせるほどとは思いもしていなかった。
こうして見ているのは、彼女がこの場にいなければ存在し得なかった光景なのだ。
もちろんマグメルだけではない。
どこか不服そうにも見える表情で自身を見下ろすもう一人の少女の取った勇気ある行動もまた、この結果に至るに欠かせない要素の一つだろう。
喉元に戟の切っ先を突き付けられながらも決然として放った言葉が、忘我の境地に身を置いていたマグメルを守ったのだ。
彼女の切った啖呵にも似た言葉がなければ、真実を伝えたいという願いも願いのままで、思いも思いのままで終わっていたに違いない。
「——ありがとう、シオン」
変わらず仏頂面で見下ろす少女を見上げて感謝を伝える。
彼女は大げさにも見えるしぐさで深々と嘆息し、傍らまで歩み寄る。
両膝を突いた彼女は血のにじんだエデンの頬に指先を触れさせ、次いで傷だらけの掌をそっと持ち上げた。
「……こんなにして」
呟いて今一度大きなため息をついた彼女は、エデンの顔を正面か見据えて静かに言った。
「後ほど念入りに治療して差し上げます。今の私は少しばかりいら立っていますので、荒っぽくなることは覚悟しておいてください」
「……う、うん。覚悟——しておく」
空笑いを浮かべて応じるエデンに、彼女は表情を変えずに続ける。
「ここで痛くしておかなければ、貴方はきっとまた同じことをするでしょうから——」
そこまで言って不意に表情を緩めると、シオンは両の手でエデンの掌を挟み込む。
「——痛くても、貴方は……」
消え入りそうな声で呟くとともに、その手にいくらか力がこもる。
思わずこぼれた悲鳴を聞き留めたのか、彼女は小さく謝罪を告げて黙り込んでしまった。
「ごめんなさい」
「ううん、シオンに心配を掛けないように——その、これからは……もっと気を付ける」
痛みを取り戻し始めた掌で軽く握り返すと、彼女はまばたきをする間に見逃してしまいそうなささやかなしぐさでうなずいてみせた。
続いて首をひねって見やるのは、落羽の翼の中で目を閉じるカナンの顔だ。
さすがに無理がたたったのだろう、泥のように眠り込んでいるのが離れていてもわかる。
その胸の規則正しく上下する様と、落羽の穏やかな表情は、彼女が生命の危ぶまれるような状態ではないことを表わしている。
安堵の念を抱くとともに、目覚めた暁には必ずや感謝を伝えようと心に誓った。
カナン、シオン、マグメル——三人の少女に視線を送り、改めてこの奇跡的な巡り合わせに思いをはせる。
誰か一人でも欠けていれば、この結果は得られなかったに違いない。
絵を見てもらうことはおろか、描き切ることもできず、描こうと思うこともなく、それ以前に命が無事である保証もなかっただろう。
もしもこの結果を成果と呼ぶことが許されるなら、褒められるべきは、称えられるべきは自身などではない。
文字通り身を削るより他に手段を持たなかった自身などよりも、そこに至る道を開いてくれた三人の少女と——。
万感を胸に頭上を見上げる目に、夕焼けの空に昇る月が映る。
それは追い求めてやまない少女が時折見せた、仄赤く輝く瞳によく似ていた。
突として耳に飛び込んできた幾人もの叫び声に、エデンはその出どころを目で追った。
そこには重なり合うようにして崩れ落ちる嘴人たちと、彼らの中央で立ち尽くす兵士長ヴァサルティスの姿があった。
数十人をもってしても彼女の巨体を空へ持ち上げることはできなかったようで、ヴァサルティスはどこかもの悲しげにも見える表情を浮かべている。
やむなく空から地上絵を見ることを諦めた彼女に、周囲の嘴人たちと鱗人たちは言葉を尽くし、身ぶり手ぶりを交え、大地に描かれた絵の詳細を説明しようとしていた。
その光景を前にして妙なおかしさを覚えるとともに、押さえ込んでいた感情が溢れそうになる感覚を覚える。
つい先ほどまで槍と戟を交えていた嘴人たちと鱗人たち、それが翼と手を触れ合わせ、互いに笑い合っている姿は、本当に現実なのかと疑いそうになるほどだ。
生死を賭けて戦っていた者たちがこうもたやすく和解することができるのかと信じられないのは、自身がいまだ戦士と名乗ることのできない半端者だからなのだろうか。
もしもいつか誰かと命懸けで戦うことがあって、その中で心を通じ合わせることができたなら、戦いを知らない今の自身よりも相手に寄り添うことができるのだろうか。
考えてもわからないことばかりだが、少なくとも目の前の状況が好ましいものであることは疑いようもない。
戦は終わったのだ。
もう殺し合うことも、傷つけ合うことも、いがみ合うことも、信じる神の名を奪い合うこともない。
嘴人が鱗人を、鱗人が嘴人を称え合う姿を潤む瞳で眺めつつ、エデンはしばし深い感慨の念に身を浸らせ続けた。




