第四十四話 阻 喪 (そそう) Ⅱ
「お前がわかりやすい奴でよかったよ。……でもな、あんまり手間掛けさせんじゃねえぞ、あれからも大変だったんだからよ。雨ん中地べたはいずり回ってだ、お前のぶちまけた金、一枚残らずかき集める破目になった俺の身にもなれって」
アシュヴァルは大きく厚みのある掌で少年の後頭部に触れ、わずかに口元を緩ませて言った。
「——ま、こんだけ突っ走れんなら万々歳ってとこだな」
「……ごめん、アシュヴァル。いつも——本当にごめん……」
床に顔を突いたまま謝罪の言葉を口にし、座り込んだ姿勢のまま顔を上げる。
「ローカが——」
——どこかに行ってしまった。
言いかけて言葉をのみ込んだのは、目の前の光景を見れば何が起きたかなど瞭然だからだ。
だがアシュヴァルならば、眠り続けていた間のことを知っているかもしれない。
そこに考えが至った瞬間、少年は膝立ちの姿勢で彼の胴にしがみ付いていた。
「アシュヴァル……!! ロ、ローカがどこへ行ったのか知って——」
問いかけて、再び口をつぐむ。
続く言葉の見つからない理由は、先ほどとはまた別のところにある。
見上げるアシュヴァルの顔が、どういうわけか凍り付いたように固まってしまっていたからだ。
「——ど、どうしたの……? 」
「ん、ああ……」
呼び掛けに対しても、彼はどこか落ち着かない態度で視線を背けてしまう。
質問を重ねることがはばかられるような気がし、それ以上を尋ねることなく押し黙る。
ローカの件については己一人で解決してみせると、彼女を買い取ると決めたあの日に誓っている。
それでもアシュヴァルを含め、皆から多くの助力を得ているのが現実だ。
一から十まで頼り切りになるわけにはいかない。
数秒の逡巡ののち、少年は意を決するように口を開いた。
「じ、自分で近くの店の人に聞いてみるよ! どこに行ったのか知ってる人がいるかもしれないし、行き先まではわからなくても方角くらいなら——」
「必要ねえよ」
遮って口を開くアシュヴァルの口調からは、思い詰めたような暗い響きが伝わってくる。
思わず息をのみ、少年は黙って続く言葉を待った。
「野郎があの娘を連れて向かったのは、こっから南に十日ぐらい歩いたところにある小っせえ集落だ」
「え……」
あぜんとして言葉を失ったのは、どうにかして突き止めようとしていたローカの行方を、いともあっさりと教えられたからだ。
少年が驚愕と安堵とがない交ぜになった表情を浮かべる一方で、アシュヴァルは憎々しげに顔をゆがめて言った。
「南の山ん中……よりにもよって彪人の暮らす集落にな」
「え……? そ、そこって……もしかして——」
「ご明察、我が麗しき故郷ってやつだ」
思いも寄らない言葉に、少年は目を見開いて驚きをあらわにする。
片唇をつり上げ、皮肉げな笑みを浮かべたアシュヴァルは、いとわしい名を呼びでもするかのように吐き捨てた。
布団を一枚引っ掛けただけの裸身を見下ろし、アシュヴァルはいったん部屋に戻ることを提案する。
しかし一分一秒でも早く話の続きの聞きたい少年が左右に頭を振って応じると、彼はあきれ交じりに嘆息しつつも意をくんでくれた。
布団を身体に巻き付けたまま、アシュヴァルと共に大通りを進む。
この町に部屋と鉱山以外の居場所などなく、向かう先はいつものなじみの酒場だった。
昼下がりということも手伝って、店内には客の姿は一人もない。
酒場の主人と給仕は少年の姿を認めて驚きの表情を浮かべるも、何も聞かず奥の席に迎え入れてくれた。
一週間も眠っていたということは、鉱山だけでなく酒場の仕事にも穴を空けてしまったということだ。
忙しい時間を二人で回させてしまったことに罪悪感を覚えるが、店主や給仕はいつもと変わらない様子で開店の準備に戻っていった。
「ア、アシュヴァル……! さっきの話——」
卓に着くや否や、正面の席に腰を下ろしたアシュヴァルに向かって問い掛ける。
何を差し置いてもローカの行き先が知りたく、さらに言えば一刻も早く後を追い掛けたいのが本音だった。
こうしている間にも、彼女の身柄が商人の話していた何者かに買い取られているかもしれないのだ。
そんな焦りを見透かしているのだろう、アシュヴァルは割って入るように言った。
「いいからまずは落ち着け」
言ってアシュヴァルは、ちらちらと不安げに様子をうかがっていた給仕に向かって手を上げる。
そして今一度正面から少年を見据え、噛んで含めるように続けた。
「で、落ち着いたら取りあえずなんか食え。一週間も眠りっ放しだったんだ。食わねえと死んじまうぞ。話はそれからだ」
とがめられているわけでも叱責されているわけでもなかったが、反論を許さない断定的な口調に、黙ってうなずく以外の選択肢はなかった。
ややあって、給仕により料理が運ばれてくる。
アシュヴァルの前に配されたそれは普段と変わらない内容だったが、少年の皿の中身は見慣れない仕立ての料理だった。
穀物を多めの水で軟らかく煮た粥であろう料理は、酒場の品書きにもなく、注文品として配膳した覚えもない。
病み上がりの身体に合わせ、主人が特別に用意してくれた一皿なのだろう。
念願を果たすことなくみすみすローカを失った上に、気を失って寝込んでいたことを彼や給仕は知っているのだろうか。
力を貸してくれた抗夫の皆に、どんな顔で報告すればいいのかもわからない。
厨房の主人に向かって小さく頭を下げると、「いただくね」と小声で呟き、匙を手に取った。
大きめの匙で皿の中身をひとすくいし、ゆっくりと口の中へと運ぶ。
ほのかに塩気の利いた粥は、衰弱した身体に染み渡っていくような気がした。
二口目をすくい上げたところで、匙の中に細かく刻まれた塊を認めて手を止める。
顔を上げて正面のアシュヴァルに目をやれば、彼もまた炭火で焼き上げたそれを、鋭い牙で引き裂いて咀嚼しているところだった。
瞬間、脳裏にローカのことを不老長寿の薬と評した商人の言葉がよみがえる。
彼女の肉や血が、人の身に奇跡をもたらす秘薬であると商人は語った。
不意に食べるという営みが忌まわしい行為に感じられ、湧き上がってくる不快感にのみ込んだばかりのものを戻しそうになる。
「——う……」
どうにかして嘔吐感をこらえ、込み上げてきたものを無理やりのみ下す。
悪い考えを力ずくで押し込めるかのように、不作法と知りながら、夢中で粥をすくって口に運んだ。
これからローカを追おうというのであれば、アシュヴァルの言う通り、今すぐに失われた体力を取り戻さなければならない。
そんな懊悩と葛藤を知ってか知らずか、アシュヴァルは自らも皿の中身を口に運びながら、少年の取る一連の行動を静かに眺めていた。