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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第五章  嘴人 と 鱗人(はしびと と うろこびと) 篇   第六節 「鱗羽、相討ちて」
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第四百四十四話  世 吉 (よよし)

 視線の先に捉えたのは、最初に刻んだ一筆目ならぬ一石目だ。

 今まさに引いている線の終筆点を起筆点につなぐことで、短くない時間をかけて描いてきた絵はとうとう完成する。

 エデンは砕けた石を放り出し、痛みは元より感覚の失われ始めている両手で大地をかき分けた。


 指先と掌は論を持たず、地を擦っていた膝や脛も例外なく血にまみれている。

 苦痛と疲労とで幾度も顔から地面に突っ伏してしまったため、顔面すらも血だらけだ。

 完成までもう少しであることは承知していたが、思うように身体に力が入らない。

 起筆点はすぐそこに見えているはずなのに、それ以上進むことができずにいた。

 線をつなぐか否かなど、描き続けてきた絵の全体からすれば取るに足らない些細な問題だ。

 見ようによっては、絵はすでに完成していると言ってもいい。

 だが、どうしても最後まで描き切りたい理由があった。

 

 ——始まりと終わりをつなぐこと。


 それが絵という形を通して自身が提示できる、嘴人たちと鱗人たちの死生観に対するたった一つの敬意の表し方だと信じているからだ。


 最後は指でも掌でもなく、肘を使って大地に溝を刻む。

 始点と終点をつなぎ、荒れた大地を存分に使って一点の絵を描き切った。


 エデンが大地に刻み付けるようにして描いたそれは、岩の丘の四分の一ほどの範囲にわたっていた。

 だが地上からでは全容を見渡せず、何を描いたものであるかも確認できない。

 手を止めたエデンを前にして、両種の長を含む戦士たちの誰もが明らかな困惑の表情を浮かべていた。

 残された気力を振り絞って立ち上がる。

 大地に引かれて崩れそうになる身を意志の力のみで持ち直す。

 駆け寄ってくれようとする少女たちを左右に首を振って押しとどめると、両種の長の元に向かって一歩ずつ足を進めた。

 長チャルチウィトルと長ネフリティスも、大地に描かれた絵を避ける形でエデンを迎える。

 この場にある嘴人たちと鱗人たち、全員の見守る中、エデンは二人の長に対して意を告げた。


「見てほしいんだ。見てもらえれば、きっと——伝えたいことがわかってもらえる」


 血にまみれた指先を、天に向かって突き上げる。


「空から見よとのたまうか」


「うん」


 チャルチウィトルの言葉に、確かな首肯をもって応じる。

 エデンを静かに見据えた彼は次いでネフリティスを見やり、重々しく左右に首を振ってみせた。


「え……」


 そのしぐさを要望に対する否定と捉えれば、にわかに胸中が騒ぎ立つ。

 二人の長に見てもらえなければ絵を描いた意味は完全に失われ、貴重な時間と機会とを作ってくれた少女たちにも申し訳が立たない。

 それだけではない、石を託してくれたこの場の全ての皆の思いを不意にしかねないのだ。

 どうしても見てもらわなければならない。

 再度懇願するようにチャルチウィトルを見据えるエデンの目に映ったのは、ネフリティスに向き直る彼の姿だった。


「吾先にこれを見ること、あに人の礼たらんや」


 言って彼は、傷ついて痛んだ翼を大きく広げる。

 他方で無言のうなずきを返したネフリティスも、身にまとう鎧をおもむろに脱ぎ始めた。

 戦士たちは肌布一枚になった彼女から目を背けようとするが、ネフリティスは毅然として言い放つ。


「目を背けずとも構わぬ! 我が身を包む鱗に一点の曇りなし! 確とその目に焼き付けよ!!」


 鎧を脱ぎ捨てて裸身をさらした彼女は、翼を広げたチャルチウィトルに向き合う。


「これ以上は脱げぬゆえ」


「相共に見ん」


 言って翼を打ったチャルチウィトルは空中高く舞い上がり、徐々に高度を落としていく。

 下方に向かって差し出された二本の脚をネフリティスがつかむ。

 チャルチウィトルはネフリティスの身体を持ち上げんと、傷ついた身体で懸命に翼を羽ばたかせた。

 いかにネフリティスが小兵とはいえ、人一人を抱えて飛ぶことは、尾羽を失い全身に傷を負ったチャルチウィトルには極めて困難なことだろう。

 彼の助けになろうと駆け寄る嘴人たちもいたが、チャルチウィトルはそれをかたくなに退ける。

 幾度もの失敗を繰り返し、時に地に落ちながら、ついに彼はネフリティスの身体を宙に持ち上げることに成功したのだった。


 チャルチウィトルの跗蹠ふしょを握るネフリティス、その表情に恐怖の色が浮かぶところをエデンは見逃さなかった。

 強固な鱗甲に身を包む鱗人たちだが、腹部や喉元を覆う鱗は背面よりも柔らかい。

 それを補うための鎧も脱ぎ捨ててしまった今のネフリティスは、つい数時間前まで敵対していた相手に弱点をさらしていることになる。

 いつチャルチウィトルが翻意し、鋭い鉤爪が白く薄い喉元をかき切ってくるともしれない、あるいは空高くから振り落とすかもしれないという恐れを受け入れた上で自らの命を彼に預けているのだから、恐れを抱くのも必然だ。


 一方で命運を相手に委ねているのはチャルチウィトルも同じだということが、今のネフリティスと同じように嘴人の脚を握って空を飛んだ経験のあるエデンにはよくわかる。

 空を舞う翼を有する嘴人にとって、飛翔という行為は最大の誇りであり喜びでもあるということは、鉱山で働く中で教えてもらっていた。

 そしてそれが常に墜落の危険と隣り合わせの命懸けの行為であることも、自らの身をもって知った。

 抱えるネフリティスを傷つけないために鋭い爪をあしゆびの内側に握り込み、それでいて空から落とすことのないように努めるチャルチウィトルの苦心の程がありありとうかがえる。

 もしもネフリティスが空中で暴れ出すようなことがあれば、もしくは脚を握る手を引けば、不均衡な姿勢で飛ぶ彼はたちまち地に落ちてしまうことだろう。


 頭上高くから大地を見下ろす二人の長を、エデンとこの場の誰もが固唾かたずをのんで見上げていた。

 地上からではその表情まではうかがい知れないが、互いの信頼の上で成り立つ行為に身を置く二人であれば、伝えたかったことを受け止めてくれるのではないかと信じる。


 しばし空中に静止して地上を見下ろしたのち、二人は人々の見守る中、地上へと下りてくる。

 チャルチウィトルは壊れ物を扱うかのようにネフリティスの身体を大地へと下ろすが、自らは着地の際に均衡を欠いて大地に伏してしまう。

 かつての錦の見る影もなく傷んだ翼を支えに身を起こそうとする彼に、膝を突いたネフリティスが手を差し出す様を目にし、エデンは自身の思いが通じたことを確信していた。


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