第四百四十三話 描 手 (えがくて)
岩の戦場は、先ほどまでの喧騒がうそのように静まり返っていた。
開戦が告げられる前と同じように、東西に分かれていく両軍の間をエデンは歩んでいく。
左右に視線を振れば、皆が自身に視線を注いでいるところが見て取れる。
質量を持ちでもするかのように重く突き刺さるそれを絶え間なく総身に受けながら、二人の長の元に向かって歩みを進めた。
比較的軽傷の者も、武具を杖代わりに身を支えている者も、深手を負って動くことのできない者も、戦場に居合わせた全員が注意深く自身の動向をうかがっているのがわかる。
中には倒れ伏したまま、あるいは負傷者を介抱しながらの者たちもいる。
絶え間なく注がれる視線の重さは、負っている責任の重さなのかもしれない。
歩を進めながら、ひたすらに考える。
この瞬間は少女たち三人が作ってくれた時間であり、自身の行動いかんによって嘴人たちと鱗人たちの今後を左右する運命の分かれ目でもある。
この地を訪れた際、まさかそこに暮らす種の存亡にかかわる重大な局面に居合わせるなどとは思いも寄らなかった。
しかもそれが安全圏から成り行きを見守る傍観者としてではなく、行方を握る当事者としてと考えれば、背に負う責の重圧に押しつぶされそうになる。
落羽の問うた覚悟という言葉の意味が、今ならば身に染みるように理解できた。
一身に集めた視線を散逸させないよう、殊更大仰な足取りで進む。
チャルチウィトルとネフリティス、二人の長の御前までたどり着くと、まずは両者に対する敬意を示すために深々と黙礼を送る。
両手を掲げて武具の非所持を示したのちにエデンがしたのは、身に着けている衣服を一枚ずつ脱ぎ捨てることだった。
両種に敵意を持たない、害をなさない存在であると表明するための手段、最良であるかはわからないが、今できる最善として考えたのがそれだ。
下着一枚になったエデンは再度二人の長に頭を下げたのち、見定めるような視線を浴びながら大地に膝を突いた。
しゃがみ込んだ体勢のまま周囲を見回し、手頃な大きさの石を拾い上げる。
握り締めた石を二人の長に向かって突き出すように示してみせると、それを使って荒れた岩の台地に一本の溝を刻み付けた。
場所を移しながら刻み続けるうち、やがて溝は一本の線となる。
岩を使って大地に線を引くという奇妙な行動を、嘴人たちも鱗人たちも奇異の目で見詰めていた。
そうして一心不乱に線を引き続けていたエデンは、不意に何者かの足にぶつかりかけて手を止める。
見上げたその先にあったのは、無言で見下ろす衛士長トラトラツィニリストリの顔だった。
後方へ退く彼を認めると、長チャルチウィトルを含む他の嘴人たちも場所を譲るかのように一斉に引き下がる。
嘴人たちのみならず、鱗人たちもまた戦場の中央を空ける形で後方へ退き始める。
戦場の——寸刻前まで戦場であった岩の大地の真ん中にはいつくばるようにして、エデンは手に握った石で線を引き続けた。
どれほどの間、岩の地面を刻み続けていただろうか。
一時間か二時間か、もしかするとそれ以上の時間が経っているかもしれない。
頭上を見上げて日の位置を確かめればわかるかもしれないが、今は一刻一秒が惜しかった。
大地に溝を刻み付けていた石が、手の中で砕けるのがわかる。
長きにわたって戦士たちに踏み荒らされた大地に転がる石はもろく崩れやすい。
手にした石が砕けては手頃な大きさのそれを辺りに求めを繰り返し、すでに数十を使い捨てていた。
周囲に転がっていた石は全て使い尽くしてしまったようで、手頃な大きさのものはもう残っていない。
戦場の端まで足を延ばせば程よい大きさの石を見つけることができるかもしれないが、そんな余裕などありはしない。
与えられた時間は無限ではなく、長のどちらかの気が変わりでもすれば、いつでも自身の行動に楔を打ち込むことができるのだ。
周囲を囲むようにして状況を見守る嘴人たちと鱗人たち、全員が武具を下ろして動向をうかがっている。
石を探すことを諦めたエデンは掌を使って地面を掘り始めるが、荒れた大地は瞬く間に指先の皮膚を切り裂いていく。
無数の戦士たちに踏み固められた地面を掘り崩す行為は、間人の脆弱な手にはいささか荷が重いようだった。
周囲を見れば、戦士たちの取り落とした槍や戟があちらこちらに散乱している。
それらを石の代用として使うことを思い付くが、頭をよぎったその考えを即座に振り払う。
刻んでいるのは——両種の暮らす集落の中間に位置する岩の大地に刻み付けたいのは、落羽から託された真実の形だ。
それをなすために戦争の道具である武具を用いてはならないと、そんな気がしてならないのだ。
戦士たちの見るのは結果だけではない。
一挙手一投足の全てが観察の対象であるということを強く意識する。
しかしながら嘴人たちと鱗人たちの命運を握っているという千鈞の重責を感じる反面、存外冷静な自身を感じている部分もあった。
指先に感じるそれは、鉱山で金を掘っていたときに感じた痛みによく似ている。
その行為が外の世界にどのような影響を与えているのかも知らず、小さな世界で岩をうがち続けていた己にできる贖罪の一つだと考えれば安くも思える。
とはいえ、わずかばかり掘り進めただけで指先は赤色の血をにじませている。
思い描いている姿——いまだ完成には程遠いそれを大地に刻み付ける頃には、手指が擦り切れてなくなってしまっているのではないだろうかという恐怖もあった。
そうなっては元も子もないと、傷つきやすい指先ではなく手根を押し付けるようにして大地を掘り続けた。
ふと頭上に差す影に気付いて顔を上げたエデンは、自身を見下ろす一人の人物の姿を捉える。
規則正しく並ぶ緑色の鱗甲に身を包む、沼の鱗人の長ネフリティスだった。
「続けよ、続けるのだ」
膝を突いた彼女は、手にした石を差し出しながら言う。
首肯で感謝を伝えて石を受け取り、再び大地に向き直る。
ネフリティスから手渡された石もすぐに砕けて掌からこぼれ落ちれば、また掌を使って地面を掘り始めた。
「見せてみよ、其方の描く明日を」
次いで石を差し出したのは、東の嘴人の長チャルチウィトルだった。
そうして石が砕けるたび、誰かが歩み寄り、新たな石を届けてくれる。
満身創痍の衛士長トラトラツィニリストリが、肩を預け合ったトレトルとセクトリが、どちらが先に渡すかの言い争いをしながらコスティクとイスタクが。
兵士長ヴァサルティスと兵士長オフィオイディスに続き、兵士長カプニアスも憮然として顔を背けながらも石を差し出す。
名前を知らない嘴人の衛士たちが、今日初めて出会った鱗人の兵士たちが、次々と進み出ては石を手渡してくる。
それが石の形をした別の何かであることがわかる。
嘴人でも鱗人でもない、どこの誰とも知れない自身に、皆が一縷の希望と未来とを石に代えて託してくれているのだ。
「俺がしたくてもできなかったこと、こんな方法でやっちまおうなんてな。本当に大した奴だよ、お前さんは」
膝を突き、石を差し出しながら落羽が言う。
その翼から石を受け取り、無言のうなずきを送る。
昨夜彼に書物を見せてもらってから、どうすればそこに描かれた真実を皆に伝えられるかを考え続けてきた。
考えに考えても答えは出ず、打つ手のないまま戦の幕は切って落とされてしまった。
だが殺気立つ者の心を歌によって静めてみせたマグメルのおかげで、一つの直感を得るに至る。
そして兵士長カプニアスに対して放たれたシオンのひと言は、直感を確信に変えてくれた。
思いを伝えられるのは何も言葉だけではない。
時に言葉よりも強く人の心に響き、雄弁に語るものがある。
マグメルのように心を震わせる歌声もなければ、シオンのように知識や機転を持ち合わせていないことも自覚している。
カナンが毒に侵された身体を押して駆け付けてくれなければ、こうして皆の前に立つ機会すら得られなかっただろう。
もしも今の自身に言葉以外で思いを伝えられるすべがあるとするならば、それは命を差し出すことに他ならない。
いつか彪人ラジャンの語った「戦士の持つただ一つの武器は命」という言葉、当時は理解できなかったそれが今ならば少しだけわかるような気がする。
命をむき出しにし、全てをさらけ出し、書物に描かれた竜の姿を見た際に受けた感動と衝撃とを、可能な限り目減りさせることなく伝えるのがこの場における自身の責務だ。
何も飾らず、色を着けず、ありのままの姿でこの場の全員に見てもらうのだ。
シオンから、マグメルから、カナンから受け取った石で、ひたすらに大地をうがつ。
場所を移す際にふと頭上を見上げれば、空が燃えるような茜色に染められていることが見て取れる。
戦いがどれほどの間続いたのか、その後どのくらいの間大地に線を刻み続けてきたのかはわからないが、すでに時刻が夕刻を回っているということだけは確かだ。
暮れゆく夕陽の向こう側、不意にエデンの脳裏に像を結んだのは、一組の蹄人の男女の姿だった。
「——私が何度お願いしても『もうやめた』って言い張って聞いてくれなかったのに……まったく勝手なんだから」
今のエデンが描きたいのは、すねたような口ぶりで言う彼女の視線の先にあったそれと同じものだ。
「これか」とどこか満足げな表情を浮かべて言い、大地を見下ろす彼の視線の先にあったものだ。
あの日も、昨日から続く今日とよく似ていた。
消えた少女を探して一日中走り回り、手を離れた剣を追って大河へ飛び込み、皆に助け出され、その後はあえなく気を失ってしまった。
丸一日以上を眠り続けて過ごし、目覚めたのちに目にした一点の——大地を画布代わりに描かれたラバンの絵に激しく心を揺さぶられたことを思い出す。
置かれた状況がそうさせたのかもしれず、赤くにじむ夕焼けの光が仕向けたのかもしれないが、彼の描いたそれが心の深い部分に届いていたのは間違いない。
もちろんラバンのように絵心があるわけでもなく、皆の心を打つ表現ができるなどとは思ってもいない。
なすべきは目と脳裏に焼き付けるように見続けた竜の姿をそのまま写し取り、絵として大地に落とし込むことだ。
無謀とも思える試みではあったが、確信はあった。
必ず成し遂げられると、開き直りにも似た確信の元に、無心で石を走らせ続けた。




