第四百四十二話 脣 槍 (しんそう)
「カ、カナン……!!」
エデンの呼び掛けに対してうなずき返す彼女だったが、相当の距離があるにもかかわらず、その顔が苦痛と疲弊にゆがんでいるのが見て取れる。
それもそのはず彼女は蛙人の毒を受けたばかりの身で、満足に歩くことのできる状態などではない。
落羽の小屋からこの岩の台地まで歩くことは、今の彼女にとって非常に困難な行為だったに違いないだろう。
加えて彼女を支える落羽とて、十全の状態とは言い難いのだ。
一歩ずつ戦場の中央に向かって進む遅々とした歩調を見れば、二人が自身ら三人が引き立てられた直後に後を追ってきたであろうことが想像できた。
落羽の肩を離れたカナンは、膝の折れて崩れ落ちそうになる身体を懸命に奮い立てながら再度声を上げた。
「私の知る兵士長カプニアスは高潔な武人だ!! 無防備な相手を手に掛けるまねなど絶対にするものか!!」
「き……貴様が何を知る!! 我が武は神祖である竜と長ネフリティスに捧げしもの!! それを振るう機会をことごとく不意にし、あまつさえ神聖な戦をおとしめるがごとき愚劣な振る舞いを繰り返す貴様らを、断じて許せんと言っているのだ!!」
細長く強靭な顎を噛み締めたカプニアスが怒声を放つ。
手にした三叉の戟をひと振るいした彼女は、その穂先をカナンに向かって突き付ける。
「カナンよ!! 貴様こそ武人としての誇りはどこへやった!! たったひと時でも友誼を感じた我らが愚かであった……!!」
吐き捨てるように言い、兵士長カプニアスはいまだ歌い続けるマグメルに一瞥を投げる。
「兵どもよ! 目を覚ませ!! こんなもの……!! こんな音がいったいなんだというのだ!!」
周囲の兵士たちに向かって大喝するように言うと、彼女は手にした戟をやみくもに振り回してみせた。
次いで戟の石突きを力強く大地に突き立てた彼女は、カナンに向かってあざ笑うような口ぶりで言う。
「それにつけても無様よな、カナン!! どこの誰にやられたのかは知らぬが、ずいぶんなありさまではないか!? 敗者である貴様が武を語るなど、厚顔無恥も甚だしいわ!!」
大きく手を振り乱して声を上げるカプニアスだったが、カナンは一切動じるそぶりを見せない。
それどころか、どこか憐憫すらも感じさせるまなざしで彼女を見据えていた。
カプニアスは抑え切れない怒りを吐露するかのように吼え立てる。
「貴様っ……!! 槍を取れい!! 今一度その武勇をもって異を立ててみせよ!!」
「すまないが君と戦うことはできない」
その怒りを軽く受け流すカナンに、カプニアスはますますいら立ちを募らせていく。
今にも爆発しそうな憤怒の相を顔に映しつつ、彼女は細く長い顎をこれ以上ないほど大きく開け放った。
「この期に及んでおじけづいたか!! それとも負傷を理由に勝負を降りるつもりか!? とんだ腑抜けよ、武人として認めた我が愚かであったわ!!」
「カプニアス——」
荒ぶる彼女とは対照的な、あくまで冷静な口調でカナンは名を呼ぶ。
怒りに震えるカプニアスの顔を見据えたのち、次いでカナンは自らの目元に触れながら続けた。
「——私は涙を流す者に振るう槍を持たない」
「涙……だと!? 貴様……何を莫迦げたことを——」
信じられないといった様子で呟き、カプニアスは己の瞼に触れる。
カナンの言葉がうそではないことを理解すると、カプニアスは自らの指先に目を凝らして呟いた。
「我が——泣いている……だと? この万夫不当の兵士長、カプニアスともあろうものが……こともあろうに戦場で涙を——」
「それが君の言う音の仕業——なのだろうな」
言ってカナンは目を細め、シオンに肩を抱かれて歌い続けるマグメルに優しげな視線を送った。
続けて彼女は揺らぎそうになる足元に力を込め、あくまで毅然とした態度で胸を張る。
そして周囲をくまなく見渡すと、声を大にして告げた。
「猛き鱗の勇者たち!! 並びに麗しき翼の勇者たち!! 草原の覇者である吠人の長イルハンの名代として、この私——カナンから貴君らに一つ願いたい!!」
立っているのもやっとであろうにもかかわらず、放たれた声は戦場一帯に響き渡っていた。
皆の見詰める中、カナンは一歩一歩とエデンの元に歩み寄る。
「伝えたいことがあるのだろう。私ができるのはここまでだ。……エデン、後は君に任せたぞ」
耳元でささやくと、振り返った彼女は戦場の左から右まで、右から左までを見渡し、再び大きく息を吸い込んだ。
「この場にある全ての勇者たちよ!! 我らが盟主、エデンの言葉を聞いてくれ!!」
宣言するや、エデンの進路を開く形で道を譲った彼女は、糸が切れたようにその場に膝を突いてしまう。
いつの間にか後方に回り込んでいた落羽が身体を支えようと近づくが、彼女は手をもってそれを固辞してみせる。
「カ、カナン……」
思わず駆け寄ろうとするエデンも、その瞳に宿る強い意志の光を認めて足を止める。
後方を振り返ってみれば、マグメルを背中から抱き締めたまま繰り返し声を掛けるシオンの姿がある。
「もういいんです、もういいんですよ……」
「——あれ」
我に返ったマグメルは、緊張が解けたかのように膝を割ってへたり込む。
自らの歌声が戦場にどのような効果をもらたしたのかに気付いていないのだろう、不思議そうな表情を浮かべて左右に視線を走らせていた。
「届いたんですよ」
膝を突き、その肩を抱いたシオンが呟くように言う。
マグメルは何が何やらといった顔つきでシオンを見詰め、次いで立ち尽くすエデンを見上げた。
「……へへへ」
はにかむような笑みを浮かべる彼女に、エデンも決意を込めてうなずきを返す。
続けてシオン、カナンに順に視線を送ると、戦場の中央に向かって一歩を踏み出した。
 




