第四百四十一話 遊 歌 (あそばせうた)
「——けんか、やだ」
嘴人の衛士たちと鱗人の兵士たち、両種の間で立ち尽くしていたエデンが耳に留めたのは、マグメルの口にした消え入りそうな呟きだった。
ひと言も発することなく茫洋とした瞳で戦場を見詰め続けていた彼女の唇から漏れる呟きに、シオンは慌てて弁明の言葉を口にする。
「わ、私たちは喧嘩をしているというわけではなく——」
「うん」
答えてシオンの頬に触れ、マグメルは次いでエデンに向き直る。
「じ、自分も……! そ、そんなつもりじゃなくて……」
「わかってるよ」
言いよどむエデンの顔を見上げて言うと、彼女ははにかむように微笑んでみせた。
「けんかは——だめ」
呟きながら脇を通り過ぎ、戦場の中央に向かって歩んでいくマグメルに対し、エデンは引き留めの言葉をかけられずにいた。
心ここにあらずの酩酊したような表情をたたえた彼女が、定まらない足つきでふらふらと歩を進める姿からは、不思議と厳かささえ感じられる。
同じく何事かと動揺を見せながらも、行く手を阻めずにいた二種の戦士たちの真っただ中で立ち止まると、両手を左右に広げたマグメルは胸いっぱいにゆっくりと息を吸い込んだ。
聞こえてきたのは、耳慣れた歌声だった。
「——眠れや眠れ
眠れよい子よ、綿の懐で
羽毛の衾にお入りなさい」
聞き覚えがあるのは、それが旅の中で幾度も耳にしていた旋律だったからだ。
マグメルがふとした拍子に口ずさむ歌であり、シェアスールの皆が自身らのために演奏してくれた曲だ。
マグメルとアリマが競い合うように声を重ねた歌でもあり、ルグナサートが独り寂しげに奏でていた曲でもあった。
「揺り籠の上には白き雲
御空を翔ける夢結ばん
天飛ぶことに疲れたならば
いつでも羽を休めておくれ
長閑けき明かりに包まれて
そっと目を閉じお眠りなさい
朝までお休み、小さき御子」
マグメルの歌声は、徐々に声量を増していった。
近くにあった嘴人と鱗人たちは武具を握る手を止め、歌う彼女を珍しいものを見るような目で眺め始める。
当然ながら丘の上の戦場は広く、歌声の届かない場所では幾人もの戦士たちがいまだ干戈を交え続けている。
その中には両種の長や、衛士と兵士を率いる者たちも含まれていた。
怒号と喊声、武器同士の激しくぶつかり合う甲高い音に歌声をかき消されてなお、マグメルは何かに突き動かされるかのごとく一心不乱に歌い上げていた。
「眠れや眠れ
眠れよい子よ、静けき墓の下
地の褥にお還りなさい」
目を閉じ、組んだ両手を胸の前に添えて歌い続ける背を、エデンはあぜんとして見詰め続ける。
「マグメル——」
呼び掛けてみても、無我夢中で歌う彼女は一切気付く様子を見せなかった。
声量を増していく歌声が少しずつ戦場に広がっていき、目の前の相手を打ち倒すことに囚われた戦士たちの耳に届き始める。
刃が打ち合って立てる音がやみ、怒りの叫びが静まれば、歌声の届く範囲はますます遠くに及んでいた。
「揺り籠の下は黄泉の国
いつか再び目覚む時まで
誰にも傷つけさせはせぬ
岩の甲で護りませ
仄暖けき土の中
今は安らにお眠りなさい
夜までお休み、優し御子」
嘴人たちが、翼に握った槍を取り落とす姿が戦場の所々で見られる。
鱗人たちの振るう戟が、勢いを弱めていくところが見て取れる。
マグメルの歌う歌が、嘴人の衛士たちと鱗人の兵士たち、両種の戦士の戦にはやる心を少しずつ静め始めていた。
「眠れや眠れ、静かにお眠り
枝が折れなば揺り籠落つる
流れに揺蕩い揺り籠いずこ
あなかま給え、密かなれ
寝ぬ子はいぬか、起き居る子いぬか
いたらかけよう眠りの砂を
それでも寝なくばその殻を、突きて中身を穿ろうか」
丘の上の戦場のあちらこちらから、武具が大地に落ちて立てる音が聞こえてくる。
辺りを支配していた喧騒が収まり、いつの間にか響くのはマグメルの歌声だけになっていた。
槍と戟を手放した戦士たちの誰もが、マグメルの歌に耳を傾けていた。
嘴人たちの中には膝を折って天を仰ぐ者、鱗人たちの中には激しいおえつを漏らす者もいる。
傷ついた同胞の身体を抱き締め、あるいは死した仲間に寄り添う者の姿が、両種の間で等しく見受けられる。
戦場を包む空気は、マグメルの歌声によって完全に塗り替えられてしまっていた。
絶句するエデンの傍らで、シオンが信じられないといった様子で呟く。
「まさか——こんなことが……」
そんな中、依然として取り付かれたように歌い続けるマグメルの元に、いら立ちをあらわにして歩み寄る者の姿があった。
先ほどまで衛士長トラトラツィニリストリと激しい戦いを繰り広げていた、鱗人の兵士長の一人カプニアスだ。
荒々しい大股で歩を進めた彼女は、マグメルを見据えて怒りに満ちた様子で吐き捨てた。
「また貴様かっ!! これ以上我らの戦いを汚すこと、断じて許さぬ!!」
迫る危機に気付く様子もなく歌い続けるマグメルに対し、兵士長カプニアスが手にした戟の穂先を突き付ける。
大地を蹴って駆け出したエデンとシオンは、示し合わせたかのように両者の間に割って入っていた。
エデンが突き出された戟の刃とマグメルの間に身体を滑り込ませれば、シオンもまた両手を大きく広げ、歌い続ける彼女の前に立ちはだかる。
カプニアスはエデンを一瞥したのち、戟の穂先をシオンの顔先へと移してみせた。
「賢しき娘シオン。貴様もカナンもどこまで我々を愚弄すれば気が済む!! 我らのこと、竜のこと、知りたいと語ったのは虚言だったのかっ!!」
怒りに震えるカプニアスの顔を見上げながら、シオンは顔先に突き付けられた刃をものともせずに切り返す。
「うそ偽りを申し上げたつもりはありません。貴女がた沼の鱗人のことを知りたいと願ったのも、大樹に暮らす東の嘴人たちのことを知りたいと欲したのも、偽らざる私の本心です。貴女が命を賭してまで守りたいもの、今この瞬間に何に憤りを感じているのかも、許されるのであれば教えていただきたいと考えています」
「貴様っ……!! 何を白々しいことを!! これ以上戯れ言を重ねるようであれば、今ここでその喉をかっ切ってくれるわ!!」
カプニアスの握る三叉の戟の切っ先が、シオンの首元へと押し下げられる。
「シオン——!!」
名を呼ぶエデンを片手で制すと、彼女はカプニアスを見上げて臆することなく毅然と言い放った。
「それで貴女の気が済むのならば、どうぞご随意になさってください。私は学者です。知を語るは言葉のみにあらず——! この手一本さえあれば、百万の知識を書き残すこともできましょう……!!」
言って彼女は戟の先端に手を添える。
「き、貴様あっ……!!」
シオンの断固としてかたくなな態度と言葉に、カプニアスはますますもっていら立ちを強める。
戟の先端が手ごと押し込まれ、刃の触れた首筋に赤い滴をにじませた瞬間、辺りに鋭くも透き通った声が響き渡った。
「そこまでだ!! 兵士長カプニアス!!」
名を呼ばれた当人のみならず、戦場にある者は皆そろって声の主に視線を向ける。
姿を現したのは、落羽に肩を借りて歩くカナンだった。




