第四百四十話 慧 矢 (えのや)
戦場には両種の戦士たちの上げる喚声と叫声、そして干戈を交える鋭い音が絶えることなく響いていた。
トラトラツィニリストリとカプニアスの両者は、満身創痍の身体を押して戦い続けている。
オフィオイディスの細く長い身体に拘束されたコスティクを、イスタクが懸命に解き離そうとしている。
トレトルとセクトリはヴァサルティスの盾の殴打を受けて吹き飛ぶも、拾い上げた誰の物とも知れぬ槍を支えに立ち上がる。
戦場のそこかしこで繰り広げられる死命を決した戦いを前に、エデンは気の遠くなる感覚を覚える。
目を背けたくなる思いを歯を食いしばって必死にこらえ、この場において自身のなすべきことを己の内に探り続けていた。
そんなときに目に飛び込んできたのは、足を滑らせて転倒する一人の嘴人と、三叉の戟を手に彼を見下ろす鱗人の姿だった。
鱗人の手に握られた戟が持ち上げられるところを、嘴人はまばたき一つすることなく見上げている。
死と生をひと巡りの輪廻の旅と捉える嘴人の死生観、それを否定する気など毛頭ない。
人は誰でも死すべき定めを負った生き物であり、自らもその例に漏れず、限りある命に生かされている身であることは理解しているつもりだ。
だが嘴人であろうと鱗人であろうと、それ以外のまったく別の種であろうと、旅の終わりがこんな形であってはならないと思う。
許されるならば大切な人の死に往く様を見送りたいと、そして大切な誰かに見送られて死にたいと、そんなふうに願うのはぜいたくなことなのだろうか。
「だ、駄目だっ——!!」
二人の少女の腕から抜け出したエデンは、戟を振り上げた鱗人の兵士に勢いよく飛び付いていた。
「な、何をする……お前!!」
「うわっ!!」
激しく腕を振り払われ、悲鳴を上げて跳ね飛ぶ。
大地に転がるエデンと岩陰から飛び出す少女二人を見下ろし、鱗人の兵士は怒りをあらわに口を開く。
「よくもぬけぬけと……!!」
シオンを見る目により強い怒りの念を感じるのは、眼前の彼女もまたいいように欺かれたと訝しんでいるからだろう。
だがシオンはそれが意味をなさないことを理解しているのか、弁明の言葉を一切口にすることなく彼女をじっと見上げていた。
「今はお前たちなどの相手をしている暇はない……!!」
言い捨てて踵を返す鱗人の兵士の、その進む先には先ほど矛を交えていた嘴人の姿はない。
鱗人は新たな相手を求め、戦場の直中に飛び込んでいった。
身を潜めていた岩陰から飛び出したエデンら三人だったが、その存在を気に留めようとする者は誰一人いない。
それぞれの戦いで手いっぱいなのだろう、たとえ気付いたとしても驚きの、あるいは不愉快そうな一瞥をくれるのみだった。
「エデンさんっ!! 本当に貴方は!!」
「シオン……」
名を呼ぶ声に振り返ったエデンは、立腹と憂慮の入り交じったなんとも形容できない表情で自身を見下ろす少女の顔を目に留める。
「じ、自分は……その——」
腰を突いたまま後ずさるエデンに対し、シオンは矢継ぎ早にまくし立てる。
「油断も隙もない!! 手を離せばどこかに行ってしまう! ほんのひととき目を離せばたちまち勝手をして……子供ですか!! 貴方は!!」
「こ、子供……」
「そうです!! ユクセルさんの仰っていたことを思い出してください!! わがままばかりの——あれも欲しい、これも欲しいと——貴方は足ることを知らない子供なんです!!」
「ち、違……そういうわけじゃ——」
「違いません!! それでいいんです……! 貴方はそれで——!!」
勢いよく立ち上がり、肩を怒らせて続ける彼女だったが、その口から飛び出した思いも寄らない言葉にエデンは絶句を禁じ得ない。
「え……?」
「生まれることとは——生きることとは、知ることです。たとえ生きていても、知ろうとしなければ、学ぼうとしなければ、それは生きているとは言えません! 何も持たない身一つの貴方は、生まれたばかりの子供です! これから知って、学んで……そうして生きていくんです!!」
言ってシオンは手の甲で目元を乱暴に払う。
「あの日、自由市場を発って、貴方の生きていく——生まれていくところをそばで見てきました! 知ることで満足していた私に、知った上で行うということを——知るだけでは足りないということを教えてくれたのは貴方です!」
「じ、自分が……?」
「……はい。子供の貴方の欲しがるものは……全て誰かの欲しがるものでした……! そこに自分が遊ぶための玩具は一つもなかった……だから私は——」
眼鏡越しの鋭い視線で見下ろし、震えを押し殺すようにして言う。
「——貴方の欲するもの、全て貴方の手に握らせてあげたかった。一つの取りこぼしもなく、貴方に知って——学んで……ご自身の掌で触れてほしかったんです」
もう一度左右の掌で無造作に目元を拭うと、瞑目したシオンは一段声を低めて続けた。
「……ですが思い返せばたった一つ。貴方が貴方のために欲しがったものがありました。血相を変えて私と先生のところに駆け込んできた貴方は——そう、まるで半身を奪われでもしたような……」
「半身……」
彼女の口にしたその言葉を、噛み締めるように繰り返す。
「道に迷うのも結構です。多少の寄り道や回り道もいいでしょう。ですが……足を踏み外せば奈落の底に転がり落ちてしまうような——そんな危険な道を歩むことだけは私が許しません。私がそばにいる限り、絶対にさせないと決めたのです……! 貴方があの子と……ローカさんと再会を果たすそのときまで、私は貴方の目と耳になるって——そう決めたんですっ!!」
「シオン……」
立ち上がってその顔を正面から見詰めて言うエデンに対し、シオンはそのまなじりに涙をにじませながら訴えるように声を上げた。
「ですから、もう少し……ご自身の命を大事に扱ってください——! 勝手にいなくならないでください、手をすり抜けないでください……!! 死に急ぐようなまねはやめてください!!」
「そ、そんなつもりは——」
「貴方にそのつもりがなくても、周囲はそう思ってくれはしません!! 今の貴方は——どこからみても、自ら死地に赴こうとする愚か者です!!」
「ち……違う、自分は死のうなんて思ってないし——死にたくなんてないよ……!! けど——」
両手でシオンの肩をつかみ、わずかに声を荒らげて言う。
「——死なせるのも嫌なんだ!! 自分の見てる前で……誰かが傷つくのがもっと嫌なんだ!!」
「ですから……!! だからそれが貴方ご自身の——!!」
負けじと声を張るシオンだったが、不意に口をつぐんでしまう。
その目線が左右に振れるところを認めたエデンは、自身も振り返って辺りに視線を巡らせた。
気付けば自身らの周囲には、種を問わず幾人もの戦士たちが集まってきている。
それもそのはず、先ほどまで存在を気に留められずにいたのは、両種の視界の中で大きな動きを見せなかったからに他ならない。
嘴人たちと鱗人たちの相争う戦場の直中で大声を上げ続ければ、気付くな、気に留めるなというほうが難しいに決まっている。
戦いを一時中断し、不可解なものを見るような目で自身らをねめ付ける者たちに対し、掛ける言葉は見つからなかった。




