第四百三十九話 干 儛 (かんぶ)
戦場では嘴人たち優位に見えた戦況が少しずつ変化を見せ始め、形勢は鱗人たちの優勢に傾きつつあった。
一撃離脱の投擲を繰り返し行っていた嘴人たちに疲労の色が見え始め、槍の補充が間に合わなくなったところを見計らって鱗人たちが攻勢に転じ始めたのだ。
前面と上面の二方向に対して掲げられていた大盾持ちは前面を担う者のみを残していったん下がり、穴を埋める形で三叉の戟を構えた兵士が速やかに進み出る。
上方に対する守りと引き換えに盾の壁から突き出した無数の戟は、空中からの攻めに対する大きな牽制となっていた。
守勢と攻勢を兼ね備える攻防一体の陣形を取る鱗人たちを相手に、嘴人たちは徐々に攻め手を鈍らせていく。
「鱗人の守りなぞ恐るるに値せず!! 臆するでないぞ!!」
自らも槍を放ちながら長チャルチウィトルが鼓舞するように言えば、衛士たちは再び奮い立つ。
「長チャルチウィトルの言や真なり!!」
長の督励を受け、衛士長トラトラツィニリストリは声を上げて一直線に空へと舞い上がる。
「我が翼に付いてこられる者はあるか!?」
たき付けるように言って飛び翔けるトラトラツィニリストリを狙い、鱗人たちの間から幾本もの戟が投げ放たれるが、そのどれもが彼を捉えることはできない。
空中で身を翻したトラトラツィニリストリは、落下の勢いを十二分に生かして翼に握った槍を投げ放った。
雷鳴にも似た轟音を響かせて飛来する投槍、それを怖気付くこともなく正面から受け止めたのは、兵士長の一人ヴァサルティスだった。
彼女は槍の突き立った大盾を頭上高く掲げると、周囲の兵士たちに向かってこれ見よがしに示してみせる。
終始無言の彼女に代わり、兵士たちの奮起を促すように声を上げるのは長であるネフリティスだ。
「見よ!! これが彼奴らの伝家の宝刀の雷公の槍!! 僭越至極な字なぞに惑わされるな!! 恐るるに足りぬのは彼奴らの槍のほうだ!! 堅牢地神の守護を受けた我らの鉄壁の守りを貫けるものなどありはせぬ!!」
兵士長ヴァサルティスの見せる堅い守備に長ネフリティスの鼓舞も相まって、鱗人たちの士気はますますもって高まっていく。
兵士たちが手にした三叉の戟と盾とを突き上げて鬨の声を上げれば、ヴァサルティスは槍の突き立った盾を高々と掲げてみせた。
刹那、彼女の手にした大盾に二本目の槍が突き立つ。
息つく間もなく放たれたトラトラツィニリストリの槍に貫かれ、ヴァサルティスの盾は瓦解するように崩れ落ちる。
「雷が二度落ちぬと誰が言ったか!? 雷公の雷霆は何度でも貴公らの身を打ち抜くぞ!!」
にわかに騒然となる鱗人の兵士たちに対し、新たな槍を趾に把持したトラトラツィニリストリが空中からあおるような口ぶりで言い放つ。
兵士たちの統制がわずかに乱れ始めたかに思えた直後、長ネフリティスの声が戦場に響き渡る。
「うろたえるな、鱗の勇者たちよ——!!」
戟を突き上げた彼女の叱咤の声に、兵士たちの動揺は瞬く間に静まっていく。
「曲芸紛いの見せ物に騙されることなどない!! 守りを固めよ!! 防御こそ最大の攻撃なり!!」
長の号令によって統制を取り戻した鱗人の兵士たちは、速やかに陣形を整え直していく。
三叉の戟を握った者たちの周囲を大盾を手にした重装の兵士たちが囲み、頭上から放たれる槍に備える。
他方、嘴人の衛士たちも長チャルチウィトルと衛士長トラトラツィニリストリの指示を得て陣形を立て直すと、再度上空からの投擲と急降下による攻撃を再開した。
チャルチウィトル率いる東の嘴人とネフリティス統べる沼の鱗人——両種の相争う様を、エデンには黙って見ていることしかできなかった。
拳を固く握り締め、折れんばかりに奥歯をきしらせる。
打つ手を持たない己の無力さを噛み締めながら、目の前で行われる行為をじっと見詰めていた。
シオンとマグメルがいまだ組み付いたままなのは、いつ戦場に飛び出していかないとも限らないと危ぶまれているからだろう。
彼女らの思いに応えるべく、湧き上がる気持ちを無理やり押し静める。
自身が出ていっても何もできない、なんの解決にもならない。
むしろ危険に身をさらし、シオンの言う通り志半ばにして命を落とす事態にもなりかねないのだ。
強く強く言い聞かせるとともに、この旅に送り出してくれた、旅中で出会った皆の顔を思い出し、はやる心を必死に抑え付けた。
追い求める少女の姿を思い浮かべて一層強く己を律するが、そんな中でふと一つの考えが脳裏をよぎる。
もしもこの状況自体がローカの導きの一部であるのなら、彼女は何を見ろといっているのだろうか。
シオンと同じように、己の無力さと覆せない現実を知れと言っているのだろうか。
エデンは文字通り切歯扼腕しながら、目を見開いてまじろぐことなく戦場を凝視していた。
時間の経過ととも、戦況は刻々と移り変わる。
嘴人たちの統制にほころびが生じ始めれば、鱗人たちの密集陣形も徐々に解かれていく。
都度両種の長と衛士長、兵士長らが指揮を執って陣を布き直すが、それも長く状態を保ち続けることはなかった。
激しく疲弊し、深く傷ついた戦士たちからは、眼前の相手に立ち向かうだけで精いっぱいという様子がつぶさに伝わってくる。
投擲用のそれが尽きた嘴人の衛士たちは地上に下り立って槍を振るい、鱗人の兵士たちも完全に方陣を解いた散開状態で戦いを続ける。
岩の戦場は、両種入り乱れての乱戦の様相を呈し始めていた。
衛士長トラトラツィニリストリが槍を振るう相手は、三叉の戟を手にした兵士長カプニアスだ。
実力者同士の戦いは、土埃舞い立つ戦場の中にあって最も熾烈を極めていた。
両者一歩も引かず、互いの得物を激しく打ち合わせる。
赤色のトレトルと青色のセクトリの二人は、兵士長ヴァサルティスを相手取っていた。
ただでさえ強固な鱗甲を身にまとう鱗人、中でも屈指の守りを誇る彼女を相手に、赤青の二人は息の合った連携攻撃を見せる。
だがヴァサルティスの手にあっては盾すらも強力な武器であり、その殴打は鎚もかくやと思わんばかりの威力を有していた。
近接戦でも遺憾なくその強さを発揮する兵士長オフィオイディスの相手を務めるのは、金色のコスティクと銀色のイスタクだ。
毒の吹き矢に注意を払いつつ間合いを取って戦う二人は、互いに言い争いを続けながら槍を振るう。
丘の上のあらゆる場所で、嘴人の衛士たちと鱗人の兵士たちによる戦いが繰り広げられている。
槍に貫かれてうずくまる者、戟に絡め取られて地に落ちる者、毒を身に受けて地に伏す者、戦場は完全に泥沼と化していた。
それでも誰一人、戦いをやめようとする者は見当たらない。
翼を封じられた状態のまま槍を振るい、自らの尾を引きちぎって戦いに臨む。
誰もが己の命を削り、竜の名を取り戻そうとしていた。
それは双方の長も例外ではない。
戦場の中央——不可侵領域であるかのごとく生じる空隙の中で、二人の長が切り結ぶ。
長チャルチウィトルの長く美しい尾羽は血を擦り、砂と土にまみれている。
宝石のような羽毛も所々が抜け落ちており、分が長ネフリティスの側にあることは明白だった。
武芸の心得のあることは見て取れたが、無双の勇士と名高いネフリティスの前に、チャルチウィトルは防戦を余儀なくされている。
繰り出された戟をかわした拍子に腰を落としてしまった彼の尾羽を踏み付けにし、ネフリティスは距離を取ろうとする動きを封じていた。
しかしチャルチウィトルは翼に握った槍で自らの尾羽を断ち切り、残された力を振り絞って飛翔する。
中空から放たれる槍だが、ネフリティスの肩をかすめるようにして大地に突き立つにとどまる。
槍を手放した徒手のチャルチウィトルと、肩口に槍を受けて戟を取り落としたネフリティス。
両者は戦場の中央で、互いの出方を見定めるかのように正対していた。




