第四百三十七話 戦 端 (せんたん)
いつかと同じように、岩の丘を両手両足を使って駆け上る。
目的地であったこの場所が見えたときには、気付くとシオンとマグメルを振り切って一人先行する形で走り出していた。
武具を打ち合わせる音の響いていた三日前とは違い、台地の上は思いの外静かであるように感じられる。
人の多く集まっている気配はするものの、両種の衝突が始まっている空気は感じられない。
衛士長トラトラツィニリストリの語った開戦の時刻に間に合ったのだと、わずかな安堵を覚える。
だが、丘の上まで上り切ったところで目にしたのは、左右に分かれて集結した二つの軍勢だった。
東の嘴人の衛士たちと、沼の鱗人の兵士たち。
両種の戦士が大挙して布陣する光景がそこにある。
これから行われるであろう行為の内容に目をつぶれば、武具を手にした戦士たちの居並ぶ様はまさに壮観のひと言だ。
そんな光景を前にしてぼうぜんと立ち尽くしてしまっていることに気付き、慌ただしく身を隠したのは、図らずも以前と同じ岩陰だった。
岩に背を預け、はやる鼓動と荒ぶる気息を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。
そのさなか、手を取り合って丘を上ってくるシオンとマグメルの姿を捉えたエデンは、いつかカナンがしたように彼女らの手を取って岩陰に引き込む。
マグメルは疲労から「ひー」と悲鳴にも似た声を上げ、シオンは「はあはあ」と激しく肩を上下させながら、手足を突いてうずくまってしまう。
苦しげな表情で繰り返しせき込みつつも、彼女はとがめるような視線で見上げてくる。
「……貴方は——まったく——」
「だいじょうぶ?」
息を切らせるシオンと彼女の背をさするマグメルに「ごめん」とひと言謝罪を告げると、エデンは視線を再び後方へと向けた。
岩陰から身を乗り出してのぞき見るのは、両種の軍勢の先頭に立つ二人の人物の姿だ。
楔型に布陣した東の嘴人たちの陣頭に立っているのは、長チャルチウィトルだった。
緑とも青ともつかぬ色鮮やかな羽毛に身を包んだ彼は、自らも黒色の刃を有した投槍を翼に握って鱗人の軍勢を見据えている。
長く立派な尾羽を捧げ持ちでもするかのように支えるのは、二人の年若い侍従たちの役目だった。
長チャルチウィトルの視線の先、方形に密集した陣形を敷く沼の鱗人たちの先頭に立つのは一人の鱗人だ。
規則正しく並ぶ翠玉を思わせる緑色の鱗甲に身を包んだその人物こそ、カナンが武勇を称えていた鱗人たちの長なのだろう。
岩陰に身を潜めて戦場を見詰めるエデンに対し、しゃがみ込んだまま同じ方向を見据えて口を開いたのはシオンだった。
「彼女が沼の鱗人たちを率いる長です。岩窟集落を拠点とする鱗人の多数を占める種である『抓人』の一人であり、並ぶ者なき無双の勇士——名はネフリティス」
「ネフリティス、彼女が……」
シオンの口にした名を繰り返すように呟き、食い入るようにその姿を見詰める。
以前カナンが小兵と評したように、確かにその体格は小柄だった。
だが尖った吻先を有する頭部から細く長く伸びる尾の先まで、流れるようにしなやかな曲線を描く身体からは一切の無駄の省かれた機能性が見て取れる。
互いに重なり合うようにして身を覆う鱗甲は硬質な印象を抱かせるが、それは決して武骨さと同義ではなく、どこかなまめかしささえ感じさせる冷たい美しさを有していた。
鱗の上に重ねてまとう無数の金属片を連ねた鎧も、鋭い爪を持つ手に握った盾と三叉の戟も、その凄然たる美を損なうことなく、むしろ戦の女神の持物のようにかえって彼女の女傑としての魅力を引き立てていた。
視線を長ネフリティスの後方に並んだ三人の鱗人に移せば、シオンも目線の動きを察して続ける。
いまだ呼吸を整えられずにいる彼女だったが、短くも的確な言葉で三人を言い表した。
「兵士長の一人、『顎人』カプニアス。長ネフリティスの身辺を警護する近衛兵にして、兵たちを束ねる兵士長筆頭です。カナンさんいわく、長に次ぐ実力の持ち主であり、血気盛んな激しい気性と冷静な判断力を同居させる生まれながらの戦士——だそうです」
その激烈たる戦いぶりは、昨日の大樹の下での衝突の際に間近で目にしている。
強靭な尾で幾人もの嘴人たちをなぎ払い、衛士長トラトラツィニリストリと互角かそれ以上の立ち回りを演じる様には、慄然たる思いを抱かずにはいられなかった。
続いてシオンが口にしたのは、カプニアスと同様に昨日目にした鱗人の名だった。
「同じく兵士長の一人、『它人』オフィオイディス。優れた敏捷性と隠密性を生かし、斥候や遊撃の任を担っています。そして何より恐ろしいのは……その身に宿す毒。蛙人の有するそれとは異なる——」
「血の毒だよね」
引き継ぐようにしてマグメルが言う。
その恐るべき力が発揮される場には図らずも居合わせている。
吹き矢のひと吹きによってテポストリを昏倒させ、翼を切断せざるを得ない症状をもたらした毒の恐ろしさを目の当たりにしている。
「はい」
マグメルに首肯で応じ、シオンは続けて三人目の名を告げた。
「同じく兵士長が一人、『蔵人』ヴァサルティス。守備の要石であり、強固な鱗甲を有する鱗人の中でも最も堅牢な守りを誇る——言うなれば動く要塞といったところでしょうか」
三人目の兵士長はエデンの知らない人物だった。
属する種として口にした蔵人たちは、兵士たちの中に幾人か目にしていた。
穹窿状の背甲を有した蔵人たちが、戦において守備の役目を果たす局面も何度か目撃している。
他の鱗人に比べて太く短い四肢を持つ彼女らだが、シオンがヴァサルティスと呼んだ蔵人の兵士長は、その特徴がひときわ顕著だった。
三人の兵士長の中でも、またこの場に集結した両種を含めても、彼女に勝る巨体の持ち主はいない。
背負った半球に近い形状の背甲に加え、全身を鎧や兜とで武装しながらも一切揺らぐことなく屹立する姿は、まさに鉄壁の要塞だった。
再び沼の鱗人の長ネフリティスに視線を戻し、次いで今一度東の嘴人の長チャルチウィトルを見やる。
彼とその傍らに侍する衛士長トラトラツィニリストリ、そして赤色と青色、さらに後方に金と銀の嘴人の姿を見て取る。
彼ら以外の嘴人たちも当然樹上集落で見掛けた衛士たちであり、言葉を交わしたことのある者たちもいた。
両種合わせて数百人といったところだろうか、対峙する両種の軍勢の大局を視界に捉えたところで、差し向き安堵に小さく息を漏らす。
戦争は、まだ始まっていない。
森の中を走りに走り、開戦の合図が告げられるまでに到着を間に合わせることができたのだ。
だが目の前の状況が、寸秒をも争って決着を付けねばならない絶体絶命の危地であることは明白だ。
いかなる手段を使ってでも落羽から預かった真実を伝えなければ、シオンとマグメルに負担を強いてまで一心不乱に走ってきた意味がない。
思いを伝えるべき相手を、両種の長に見定める。
「待って!! 二人とも、話を——」
声を上げて岩陰から一歩を踏み出したエデンが見たのは、向かい合う両種の長、チャルチウィトルとネフリティスの両者の、手にしたそれぞれの得物を高々と掲げる瞬間だった。




