第四百三十六話 趨 走 (すうそう)
マグメルの所有する七つ道具とそれを扱う彼女の鮮やかな手並みにより、三人は囚われていた倉庫を抜け出すことに成功する。
倉庫のある震樹から回廊とつり橋を経て向かったのは、南東に位置する兌樹だった。
かつて大樹を訪れる旅人や行商品たちの受け入れ口であった兌樹には、幹を巡る回廊の一段下にもう一つの回廊が設けられている。
そこから縄梯子を下ろることにより、他の八樹よりも比較的容易な上り下りが可能になっている。
北東に向かうに当たって遠回りになることは否めなかったが、それでも大樹から戦の場に赴くために一番確実な方法がそれだった。
震樹からつり橋を渡って離樹へ、幹を巡る回廊から続くつり橋を渡り、目指す兌樹の回廊にたどり着く。
階段を下って下段に位置する回廊へと足を進めようとしていたそのとき、人の気配の消えた樹上で一人の嘴人の姿を目に留める。
樹下に下りるための穴のそばに座り込んでいたのは、エデンとマグメルもよく知る人物だった。
乾樹にある孵卵室、そこで卵の世話を務めていた灰褐色の羽毛に身を包む嘴人の女だ。
彼女が荷物同然につり上げられる自身らを、じっと見詰めていたことを覚えている。
「テクちゃん! こんなとこでなにしてんの!?」
座り込む灰褐色の羽毛の嘴人に対し、マグメルがその名であろう言葉を呼び掛ける。
知らぬ間に名前まで知り合う仲になっていたことにも驚きだったが、マグメルの口にしたように、彼女が皆の避難した樹上に残っていることも確かに不自然に思えた。
「あ、あの……」
立ち上がった彼女は三人の元に歩み寄り、震える声で言う。
「……ここで待っていればお会いできると——入れ違いにもならずに済むかもしれないと、そう考えて……」
その口ぶりから、彼女も自身らがゆくゆく解放されると聞き及んでいたであろうことが推測できた。
入れ違いとは、ここ——受け入れ口のある兌樹に至る経路のことだろう。
倉庫のある震樹から兌樹に至るには、実際に歩んできた離樹を通過する経路以外にも、央樹を経由する道筋もある。
それを考慮に入れた上で、彼女はいつ戦が始まってもおかしくない状況の中、この場所で待ち続けていたのだろう。
「しっかりとお礼を言えていなかったので……」
言って灰褐色の羽毛の嘴人はエデンとマグメルの手を取り、次いでシオンに向かって会釈をする。
「……薬草、ありがとうございました。大切に使わせてもらっています」
深々と頭を下げたのち、彼女は三人を順に見上げながら問う。
「行かれるのですね」
「うん」
「お師さまも同じでした。ある日ふらりと姿を消してしまって、急に帰ってきて……それで——」
彼女の言う師が、片翼を斬り落とされて樹上集落を追放された落羽であることはその話しざまから察することができていた。
そして同様に落羽の語った、若者が集落に残してきた幾人かの教え子の内の一人が目の前の彼女だということも。
「——またどこかに行ってしまいました。見つけたんだと、そう意気込んでいるのを見たのが最後です。そのときのお師さまの目……」
うつむき気味の姿勢から、灰褐色の羽毛の嘴人は今一度エデンを見上げて言った。
「……今の客人さま、あなたによく似ています」
「じ、自分に……?」
「はい。ですから、どうか——」
呟くエデンの手を力強く握ったのち、彼女は道を譲るようにして回廊の脇に寄る。
「必ず帰ってきてください。テポストリさんも待っています」
言って彼女は樹下に続く穴に縄梯子を落とす。
そして左右の翼で球形を描くようなしぐさとともに、「……竜のご加護のあらんことを」と唱えた。
兌樹から縄梯子を伝って地上に下り立った三人は、戦場となる大森林の北西にある岩原に向かって走っていた。
送り出してくれた灰褐色の羽毛の嘴人——テクシストリが言うには、長チャルチウィトル自ら衛士たちを率い、その地に向かっているとのことだった。
無我夢中で走る中で、こうして森の中を行きつ来りつするのも何度目だろうと、もはや恒例になってしまった疑問が湧き上がる。
頭の中で指を折り、一往復、二往復と数え始めたところで、頭を振って考えることをやめる。
行き来した回数を忘れてしまったわけでもなければ、数えることが莫迦らしくなったというわけでもなかった。
シオンとカナンの安否を確かめるために沼の鱗人たちの集落へ向かっていたあのとき、実を言えば身体は悲鳴を上げていた。
一日中歩きづめ走りづめであったことはもちろん、嘴人たちと鱗人たちの衝突を間近で目にし、自身もまた戦いに巻き込まれるに至ったこと、そしてテポストリを襲った突然の出来事を目の当たりにしたことは、心身に多大な衝撃を与えていた。
蛙人の毒に侵されたカナンを背に負って落羽の暮らす小屋へ走っていたあのときも、思い返せばいつ倒れてもおかしくない状態だったのかもしれない。
だが結局丸一日一睡もすることなく、今もこうして森の中を走り続けている。
自分自身の意志で走っているというよりも、何か大きな力に突き動かされているのではないかとさえ思えてくる。
書物を手に故郷への帰途を急いでいた落羽も、こんな気持ちだったのだろうかと思いをはせる。
「少しだけ休憩しよう」
限界なのが決して自分自身だけでないことも当然理解の上だった。
傍らを走る少女たちに対してそう言いかけ、何度も言葉をのみ込んだ。
この重大な局面に際し、そんな提案を受け入れる二人ではないことは、この旅の中で理解し始めている。
見上げる日はすでに中天に差し掛かっている。
一刻の猶予もならない焦眉の状況にあっては、答えの決まり切ったやり取りをする時間さえ惜しい。
今は二人を信じ、一緒に走ってもらうより他はないのだ。
幸か不幸か、背負う荷物の少なさはわずかながら足を軽くしてくれている。
旅の道具を詰め込んだ背嚢は樹上集落にあり、剣も捕えられた際に取り上げられている。
それはシオンもマグメルも同様であり、三人が三人とも、武具を持たない丸腰の状態で戦場に赴こうとしている。
大地を蹴って走りつつ、あるべきものを失って軽くなった腰に触れる。
いつも窮地を救ってくれたラジャンの——刃に仄赤い輝きをたたえる祀火の剣は手の中にない。
携えるのはただ一つ、落羽から託された真実だけだった。




