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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第一章  彪 人(とらびと) 篇   第二節 「繋がれた少女」
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第四十三話  阻 喪 (そそう) Ⅰ


 かすむ視界で捉えたのは、見慣れた天井の木目だった。

 晴れの日には隙間から陽光が差し込み、雨の日には所々から雨漏りを起こす。

 時折吹き荒れる大風の日などは、屋根板が剥がれて飛んでいってしまうのではないかと思わせるほど、騒がしい音を立てる天井だ。

 いやに重く感じられる身体をひねって周囲を見回した少年は、身を横たえているのが半年間を過ごした部屋の寝台であることに気付く。


「——おう、やっと起きたか」


 顔をのぞき込んでくるのは、部屋以上によく知った顔だった。

 白の地に黄と黒の縞模様、目尻のつり上がった鋭い瞳は扁桃に似ている。

 突き出した鼻先からは数本の洞毛が伸び、上下の口元からは四本の鋭い牙が見え隠れする。

 そんな彼が大きな身体を縮こまらせ、不安げに身を乗り出している。


「俺のこと、わかるか?」


「アシュヴァル——」


 恐る恐るといった様子で問う彼に対し、少年は自身の知る友人の名を呼ぶ。

 寝台から起き上がろうにも身体は重く、割れるように頭が痛む。

 無理を押して身を起こそうとしたところ、アシュヴァルは言い含めるような口ぶりで言った。


「いいからよ、もう少し休んでろって。……あれだ、なかなか起きねえから心配したんだぜ。起きたら起きたでよ、また何もかも忘れちまってるんじゃねえかってさ」


 わずかに視線をそらし、アシュヴァルは指先で頬をかく。


「……忘れない。もう何も……忘れないよ」


「ならいい」


 渇いた喉から絞り出すような声で呟く少年に、アシュヴァルは短く答えてうなずいた。


「水、用意してくるからそのまま寝てろ。何しろ一週間も眠り続けてたんだからな」


 言うが早いか、アシュヴァルは水差しと手桶を手にして足早に部屋から出ていく。

 長屋の裏手にある井戸に向かったのだろう。

 しばらくの間、アシュヴァルの出ていった部屋の戸口をぼうぜんと眺めていた少年だったが、先ほどの彼の言葉を頭の中で繰り返し、続いて復唱するように呟いた。


「一週間……」


 そしてその言葉の持つ意味に気付き、今度ははじかれたように叫びを上げる。


「……一週間っ——!?」


 起き抜けで無理やり大声を出したせいだろう、激しくせき込みつつ、目覚める以前の記憶を手繰る。


「そ、そうだ……!!」


 思い出したのは、鉱山の皆の力添えと後押しを受け、ローカを買い取りに蹄人の商人の店へと向かったこと。

 念願を果たせず、すげなくあしらわれて追い返されたこと。

 そして雨の降る中、気を失って昏倒してしまったこと。

 なぜ忘れていたのだろうと自責の念に苛まれるが、今は悔やんでいる場合などではないと自らに言い聞かせる。


 気付いたときには、はいずるように寝台から抜け出していた。

 一糸まとわぬ裸身であることに気付くが、あいにく近くに衣服は見当たらない。

 やむを得ず寝台から剥ぎ取った布団一枚を引っ掛け、そのまま部屋の外へと転がり出る。

 よろめく身体を押し、壁にもたれ掛かりながら通りへ出ると、ふらつく両足を引きずるようにして一直線に駆け出した。


 道行く人々の好奇の視線を気にも留めず、気遣いの言葉を背中に受けながら懸命に走る。

 目指すのはもちろん、幾度となく通い詰めた路地裏だ。


 一週間。

 自身の眠り続けていた時間、それをアシュヴァルは一週間と言った。

 鉱山の仕事に空けた穴は誰かが埋めてくれているだろうが、ローカへの食事の差し入れについてはどうだろう。

 一週間、何も食べていないのではないだろうか。

 意識を失う直前に見た少女の表情を思い出し、激しい焦りを覚えずにはいられない。

 加えてそれ以上に胸を騒がせるのは、すでに彼女の身柄が商人の語っていた買い手に渡ってしまっているのではないだろうかという危惧の念だった。


 緊張と焦燥に怯えながら走る中、悪い予感は形をとって現れる。

 初めは目的の場所を通り過ぎたことに気付かなかった。

 はたと足を止め、路地裏の入り口を通り過ぎてしまったことに思い至り、慌てて道を引き返す。

 路地奥に置かれた檻がなくなっていたことが、そこを通過してしまった一番の理由だった。

 震える手で店の扉を開け放って見たのは、癖のある煙草のにおいだけを残して空っぽになった店内だった。


「そ……そんな——」


 眼前の光景が受け入れられず、がくぜんとしてその場に膝を突く。

 一週間前に訪れた際、店内には十分といってもいいほどの量の商品が陳列されていた。

 商人がこの町を発つにはまだ猶予があるはずと勝手に信じ込んでいたが、あの日のローカは空の木箱を運んでいたような覚えもある。

 この町での商売を切り上げ、買い手の元へ向かったのだろうか。


「ど、どうすれば……」


 誰もいないがらんどうの店の中で床に手を突き、額を擦り付けながら呟く。


 心のどこかで用意することなど不可能かもしれないと諦めかけていた金貨三十枚、周囲の皆の協力のおかげでなんとかそれを手にし、ようやくローカを自由にできると思った。

 しかしその金額が売値ではなく買値と聞かされ、三十枚では彼女を買い取ることはできないと知る。

 絶望に打ちひしがれていたところに現れたアシュヴァルは、彼の持ち合わせから同額の三十枚を上乗せしてくれた。

 だが買値の倍の六十枚でも、商人はローカを売ってくれはしなかった。

 それどころか、百枚という途方もない金額を提示されるに至る。


 もちろんローカを買い取ることを諦めようとは思わない。

 迎えにいくと約束し、彼女もそれに応えるようにうなずいてくれた。

 きっと今もどこかで迎えを待ってくれていると信じている。

 だが現実として、ここから金貨百枚という途方もない額をためるのに、いったいどれほどの時間がかかるのだろう。

 どこに行ったのかもわからない彼女を、鉱山の外を知らない自身が捜し出せるのだろうか。

 心の片隅に、かすかな陰りを認める。

 不安が心に深い影を投じそうになった瞬間、背中に耳慣れた声を聞いた。


「——やっぱりここだったか」


 息を弾ませながら安堵ともあきれともつかない声音で言い、アシュヴァルは少年の傍らに膝を突いた。


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