第四百三十三話 掛 縄 (かいじょう) Ⅰ
落羽はカナンの様子の確認のために何度か小屋の中へ戻ったが、エデンはその間もずっと書物に描かれた絵を眺め続けていた。
「……少しは休んだらどうだ。お前さんが寝てくれなくちゃ俺も落ち着いて眠れん」
あきれ交じりに言う落羽だったが、言葉には気遣いの念が多分に含まれていた。
見続けていれば何か手立てが浮かぶかもしれない、これからなすべきことが見えてくるかもしれない。
そんな根拠のない思いを抱いて書物を凝視し続けていたが、これ以上落羽に迷惑を掛けるわけにもいかないと、彼の勧めに従って休むことにする。
「うん、少しだけ——」
膝の上の書物を閉じ、振り返って後方に立つ彼を見上げて答えた。
休むと決めた瞬間、猛烈な勢いで睡魔が襲ってくる。
思えば先ほどマグメルが言ったように、昨日はあっちへこっちへ行ったり来たりの一日だった。
さらに嘴人たちと鱗人たちの衝突を目の当たりにし、自分たちも三人の蛙人と剣を交えるに至る。
張り詰めた状況の中で緊張感を切らさずにいたためか、もしくはカナンを落羽の元に届けなければという使命感からか、眠気を感じずにどうかこうかここまで来たが、そろそろ身体が限界なのかもしれない。
よく見れば空は白み始め、夜明けがもうそこまで来ていることを告げている。
いったい何時間書物とにらめっこしていたのだろうと己にあきれるとともに、始終付き合ってくれた落羽には心苦しく思うばかりだった。
込み上げるあくびをこらえ、押し寄せる眠気に飲まれるようにふらりと身体を揺るがせながら立ち上がったそのとき、エデンは頭上から複数人のものであろう羽音を耳にした。
「き、君たちは……どうしてここに——」
翼を畳んで下り立つ数人の嘴人たちの姿を目にし、眠気の一気に吹き飛ぶ感覚を覚える。
そして嘴人たちの——衛士らしき五人の嘴人の先頭に立って小屋に歩み寄る人物の姿を認め、反射的にその名を呟いていた。
「トラトラツィニリストリ……」
衛士長トラトラツィニリストリは玄関先に立つエデンの脇を通り過ぎ、木戸の前まで歩を進める。
「おいおい、なんの用だ。こっちはお前を呼んだ覚えなんてないぜ」
行く手に立ちふさがる落羽を腕ずくで押しのけると、トラトラツィニリストリは小屋の中へと足を踏み入れた。
「落羽っ!!」
均衡を崩して倒れ込む彼に駆け寄って身体を支え、訴えるような視線をトラトラツィニリストリの背中に投げ掛ける。
彼に続いて小屋に踏み入るトレトルとセクトリを見上げれば、二人は露骨なしぐさをもって視線をそらした。
落羽を引き起こしたのち、衛士たちを追って小屋の中に飛び込む。
そこで目にしたのは寝台で眠るカナンを冷ややかな目で見下ろすトラトラツィニリストリと、慌てふためくマグメルの姿だった。
「なになに!! なんなの!?」
シオンは寝台のカナンとトラトラツィニリストリの間に身体を滑り込ませ、無言で彼を見上げている。
「トラトラツィニリストリ、何を……?」
その背に向かって尋ねると、彼は翼に握った投槍の穂先をシオンに対して突き付けながら口を開いた。
「そこの者ら——」
次いで槍の穂先を寝台の上のカナンに移しつつ言う。
「——鱗人の集落に出入りするところを我らが斥候が実見している」
「……そ、それは!!」
慌てて弁明を口にしようとするエデンだったが、槍の穂先を喉元に向けられたことで口をつぐまざるを得ない状況に陥る。
「エデンになにすんの!! だめ!!」
声を上げて飛び掛かろうとするマグメルも、トレトルとセクトリが同時に突き出した槍に阻まれてしまう。
交差する二本の槍に身動きを封じられる彼女を横目に一瞥したのち、トラトラツィニリストリは今一度エデンに向かって口を開いた。
「我らの足を引こうとする者あらば、たとえ長の客人であろうと見過ごすことはできぬ。すまないが我々と来てもらう」
「ち、違うんだ! そんなつもりはなくて、自分たちは……!!」
「エデンさん」
実際に鱗人たちと一緒にいるところを見られてしまっている以上、ここで何を言っても意味がないことを理解しているのだろう。
意を伝えようと躍起になるエデンに対し、シオンは諦めろとでもいうように左右に首を振ってみせる。
マグメルも彼女と思いを同じくするのだろう、悔しげに歯噛みしつつもそれ以上を口にしようとする様子は見られなかった。
少女二人と寝台のカナンに視線を巡らせたのち、この場はいったん状況を受け入れるという選択を下す。
抵抗の意思がないことを示すように身体の力を抜くエデンを認め、トラトラツィニリストリはトレトルとセクトリの二人に向かって嘴をしゃくってみせた。
槍を手にした赤と青の嘴人はシオンとマグメルの腕を取り、小屋の外へ引き立てるように連れ出していく。
その後ろ姿を目にして気持ちばかりが焦ったが、続くトラトラツィニリストリの取った行動に我が目を疑わざるを得なかった。
彼がトレトルとセクトリの代わりに小屋に踏み入った衛士たちに対して合図を送ると、二人は寝台の上のカナンを引き起こそうと翼を伸ばしたのだ。
「そ、それは駄目だ!! 彼女を——カナンを連れて行くのは……!!」
エデンは叫び交じりの声を上げて二人の嘴人の前に身を躍らせるが、トラトラツィニリストリはまじろがぬまなざしを投げ掛けてくる。
エデンもまた嘴人たちの肩越しにトラトラツィニリストリを見据え、決して譲るつもりはないという意志を示してみせた。




