第四百三十一話 秘 笈 (ひきゅう) Ⅰ
玄関前の階段に腰を下ろし、エデンは一向に答えの出ない問いをこね回していた。
食事を終えたマグメルはカナンの眠る寝台にもたれ掛かるようにして寝入り、次いでシオンも椅子に掛けたまま眠りに落ちる。
二人の睡眠と、ぶつぶつとこぼしながら一人何かを探し回る落羽の邪魔にならないよう、エデンは小屋の外へと足を向けたのだった。
どれだけ深く考え事に沈んでいたのだろう、いつの間にか背後に落羽が立っていたことにしばらく気が付けずにいた。
「眠れないのか?」
聞こえてくる声に、我に返って後方を振り仰ぐ。
「——うん。珈琲のせいかな」
「隣、いいか」
許可を得るように言いつつも、落羽は返事を待つことなく隣に並ぶ。
火を灯した提燈を後方に置くと、同じ方向を向いて階段に腰を下ろした。
「カナンの様子はどう……?」
「ああ、順調だ。心配には及ばないさ。それにしても若いってのはいいな。俺なんてひと晩宵っ張りしようもんなら、次の日は使いもんにならなくなっちまうよ。いや、昔はこれでも——」
そこで言葉を切ると、落羽は頭をかきながら言い捨てるように言った。
「——俺の話なんてどうでもいいよな」
「ううん、そんなことは……」
時間と状況が許すなら、もっと彼のことを知りたかった。
どのように生きてきたのか、何を考え、何に思い至り、そしてどんな経緯で大樹を放逐されたのか。
かなうならばその半生をたどりたいという思いはあるが、今はそのときではないのだろう。
「ああ、それから——」
エデンの言葉に重ねるように口を開き、嘴の端に冷笑を浮かべて言う。
「——毒もさほど強いものじゃなかったみたいだ。初めから命まで取るつもりはなかったのかもな」
「……そう——だったんだ」
ぼうぜんと呟く心の内に、エデンはなぜか安堵をを自覚していた。
襲い掛かった三人の蛙人たち、彼らもまた戦争の——あるいは鉱山採掘の犠牲者であると知り、強く憎めない部分を感じていたからだろう。
大切な仲間を傷つけた相手に、戦に乗じて他の種の暮らす土地をかすめ取ろうとしている者たちに、共感や同情の念を抱くなどもっての外であることはわかっている。
だが故郷を奪われた彼らと故郷を持たない自身、そこに共通点を一方的に見いだして感情を移入しているのだとしたら、なんと単純でおめでたいのだと辟易する。
そして、この期に及んで戦争を止めることができないものか、二種間の状況を変えることができないものかと、身の程知らずな願いを抱いていることにもだ。
具体的な手段など思い付くわけもなく、ただ漠然とこうなってほしいという理想だけを願い続けている。
何も知らない、何も持たない、世間知らずの思い描く絵空事だ。
それは傍らに腰を下ろした嘴人の言うように、無駄のひと言で片付けられてしまう独り善がりの戯れ言でしかないのだろう。
「落羽、でも——やっぱり自分は……」
「ある所に——」
意を決して切り出すが、遮る形で落羽が口を開く。
「——ある所に、一人の若者がいた」
「落羽……?」
見詰めるエデンを横目に見やり、落羽は樹々の葉の隙間から差し込む星空を見上げて続ける。
「若者は——」
突然言いよどんだかと思うと、彼は許しを乞いでもするかのように言った。
「すまん、やり直していいか?」
「うん、どうぞ」
「最初からな」
そう断りを入れ、落羽は小さなせき払いとともに話を再開した。
「ある所に——それはそれは利発で聡明な若者がいた。周囲から将来を嘱望された彼は、皆の期待を一身に背負って勉学に励んでいた」
「それって——」
「聞いてくれるんじゃなかったのか?」
横顔を見詰めて口を挟むと、落羽は照れくさそうに頬に触れる。
「若者は皆の望み通り立派な学者になり、その深甚なる知恵と該博なる知識をもって集落のために力を尽くした。幾人かの教え子が生まれたのちは自らの蓄えた知識を惜しみなく伝授し、大いに尊敬を集めた。期待された以上の結果をもって己の役目を全うしたと考えた彼は、教え子たちに後を任せて世界を渡り歩く道を選んだ。さらなる叡智を求め、西の果て砂塵舞う不毛の荒野を往き、東の果ては峻厳たる山々を望む。南の果ての絶海の孤島に渡り、そして北の果てに極寒の凍土を——」
不意に固まってしまう彼に、続きを促すように声を掛ける。
「凍土を……?」
「若者は寒さに弱かった。北の果ては……遠くから眺めるだけで良しとした」
エデンがその言いように思わず小さな笑いをこぼすと、落羽は尖った嘴をさらに不服そうに尖らせてみせる。
「おい、何がおかしいんだ。ここは笑うところじゃないぜ」
「……ご、ごめん。続けて」
「失礼な奴だ」
込み上げる笑いをこらえて言うエデンを横目に見ながら言い捨て、彼は改めて口を開いた。
「旅の途上で若者は初めて異種を目にした。大樹の加護を受けた大森林に異種は踏み込めない。集落での暮らしの中では遭遇することのなかった異形の化け物から、命からがら逃げ出したこともあった。各地を遊歴して回るうち、幾人かの同好の士と邂逅を果たすこともできた。夜ごと語り合い、互いの学びの成果を交換し合い、そこでまた新たな発見を得る。故郷の森に引っ込んでいるだけでは得られなかった学びを手にする喜びに、若者は大きな達成感を感じていた。そして……」
そこでいったん言葉を切り、落羽は大きく息を吸い込んだ。
心を落ち着かせるように細く長く息を吐き、眉根を寄せた真剣な表情で続けた。
「……一冊の書物に出会ったんだ」




