第四百三十話 遺 香 (いこう) Ⅱ
「沼の鱗人たちにとって、竜とは神であり祖先の名です。姿形が異なろうとも、属する種が違おうとも、鱗甲に身を包む者たちは誰もが竜の子であると考えています」
「竜は——神で、祖先……」
「そうです。そしてその思想の中核をなす原理が——生と死です」
シオンの口にした言葉を聞き、エデンは我が耳を疑っていた。
生と死——それがトラトラツィニリストリから聞いた、東の嘴人たちの考える「旅」の概念とまったく同じだったからだ。
「生と……死——」
噛み締めるように呟いたのち、続くシオンの言葉を待った。
「鱗人たちは生と死を表裏一体であり不可分の存在として捉えています。生は死を内包し、死もまた生をその内に宿すもの——と。それがはるか昔から連綿と受け継がれてきた、竜の末裔としての在り方なのだそうです。隣り合わせ、背中合わせの生と死、それを如実に表すのが彼らの身に起きる変化です。彼らは一度の生の中で幾度となく死を経験します」
「え!? 生きてるのに死んじゃうって、どういうこと?」
驚きの声を上げるマグメルに、シオンは重ねて言い添える。
「もちろん本当に死ぬわけではありません。視界を閉ざされ、食事を取れなくなり、身体を動かすことさえできなくなる。ただじっと暗がりに身を潜め、身体を包む鱗甲が剥がれ落ちる時を待つ。一年に数度、鱗人たちにはそのような機会が訪れます。その前後の彼らは、周囲に無防備をさらすことになります。外部から襲撃に遭いでもすれば、あらがうすべを持たないでしょう。彼らはそこで一度死ぬのです。死を経て生まれ変わる瞬間の鱗人たちは、生と死の境にその身を置きます。古き鎧を脱ぎ捨て、新たな命を得る。その繰り返しの果てに、鱗人たちは竜へと至ると信じています」
「自分が竜に——なる……」
「はい。竜とは沼の鱗人たちにとって、至上であり至高の到達点です」
「でも竜は……その、祖先って」
鱗人の祭る神であり祖先、つい先ほどシオンは竜についてそう語った。
思わず口を突いて出る疑問に対して答えを返したのは、シオンではなく寝台の傍らに腰を下ろしていた落羽だった。
「無くしちまったもんだから未練が残るのさ。よくあるだろ、要らないと思ったがらくたでも、捨てたら捨てたでやっぱり捨てなけりゃよかったって後悔することがな」
彼は寝台のカナンに視線を落としつつ言い、横目に小屋の中を見渡しながら自嘲気味に続ける。
「……捨てずに取っておいてもどこにやったかわからない、なんてことも往々にしてあるがね」
「そういうもの、なのかな」
口にしつつ、エデンは自身に置き換えて考える。
捨てる捨てない、悔いを残す残さない。
それは捨てるほどにものを抱えていない自身には、まだ理解の及ばない話だ。
だがいつか抱え過ぎた荷物を選別し、そして手放したことを後悔する——そんな日が来るのだろうかと思いをはせる。
「厳密に言えば竜は神ではありません。はるか神話の時代、偉大なる神と共に邪を討ったとされる従者の一柱——それが竜なのだそうです。神の持つ強さと威厳を体現した竜こそが、鱗人たちが思い描くあるべき形なのです」
シオンはそこまで言って一度言葉を区切り、カナンをじっと見詰める。
「昨日の話です。例のごとく、彼女と鱗人の兵士の皆さんが槍を交えるところを見ていましたが、私には彼女らがどうしてそこまで強さに固執するのかがわかりませんでした。ですが休憩の際、カナンさんはこう言いました。『あれは守るための強さだ』——と。鱗人たちの追い求める強さとは、己のための強さではないのかもしれません。堅牢な鎧は、神と同胞を守るために存在する。そう考えると大いに納得のいく答えが得られます。守るべきは弱き裸身をさらして生まれ変わる途上の仲間、そして次世代に命をつなぐ——」
「も、もしかして——」
シオンが話している途中にもかかわらず、口を挟まずにはいられなかった。
「——それって……」
「たまご?」「卵です」
マグメルとシオン、二人の少女の言葉が重なる。
シオンは小さくうなずき、エデンとマグメルとを順に見やって言った。
「柔く、脆く、弱い殻に包まれた卵は、鱗人たちの守る一番の宝です」
「同じなんだ」
「うん、おんなじ」
呟くエデンに、マグメルも同意を示す。
「んとね、嘴人たちもすっごくたまごを大事にしてた。日当たりのいいお部屋でね——こうやって温めてさ、ほんとに大切にしてるんだってひと目でわかるくらい」
彼女が身ぶりを交えながら言うと、シオンは膝の上で手帳を閉じて小さく微笑んでみせた。
「同じは——彼らに限ったことではないのかもしれません。この世に生きとし生ける者は、おしなべて死すべき定めを負って生まれてきます。私も皆さんも、大いなる流れの中に浮かんでは消える無数の泡沫の一つですから。やがて訪れる死と差し向かい、あるいは目を背けるという向き合い方で、誰もが生と死の間を行き来しています。沼の鱗人たちと東の嘴人たちは、その死生観が心持ち近い場所にある……それだけの話なんです——きっと」
シオンはエデンを見据え、そう話を結んだ。
「生と死、近い場所……」
繰り返しつつ、片手で頭を抱えて考え込む。
大樹に身を寄せて生きる東の嘴人たちにとって、竜とは日々の暮らしに根差す教えそのものだ。
決して現実から乖離した名ばかりの題目などではなく、彼らの生きる寄る辺といっても過言ではないのかもしれない。
そしてそれは沼の鱗人たちにとっても同じことなのだ。
竜の名を我がものにせんと戦う二つの種、どちらか一方に傾いた視点から事態を観測していたら、誤った判断を下していたかもしれない。
考えれば考えるほど、恐ろしく思えてくる。
危険を承知で別行動を買って出てくれたカナンとシオン、行動を共にしてくれたマグメルには感謝してもしきれない。
嘴人たちの考える生と、鱗人たちのが見る死——もしもそれらがいつかカナンの語った盾の面であるのなら、両方の面を両の種に見せることはできないものだろうか。
同じように生と死を見詰め、新たな命と旅立つ者を見送ることのできる両種ならば、無益な争いをやめて手を取ることができるのではないだろうか。
二つの種の間を隔てる近くて遠い——遠くて近い事実、どうすれば誤謬なく伝えることができるだろう。
「エデンさん、今は——」
「……うん」
言って聞かせるようなシオンの声に、気のない返事を返す。
思い出したように口に運んだ珈琲はすっかりぬるくなってしまっていた。




