第四百二十九話 遺 香 (いこう) Ⅰ
とてもではないが食事が喉を通る気分とは言い難かった。
それでも食べなければと己に言い聞かせ、落羽の言葉に甘えることにする。
しかしながら彼の言う「その辺にあるもの」は小屋には存在せず、結局マグメルと二人して森の中へ食べ物を探しに出ることになった。
遠くまで足を延ばすことは控え、見慣れた果実を採取したのちはすぐに小屋に戻る。
落羽は皆が食事を進める間もカナンから片時たりとも離れず、結局何も口にすることはなかった。
改めて急に押し掛けた揚げ句、仲間の治療まで行ってもらったことに対し、何度も繰り返し感謝を伝える。
「なに、困ったときはお互い様さ」
落羽は礼を言うエデンの顔も見ず、軽く受け流すだけだった。
そんな中、やにわに立ち上がったシオンは自らの背嚢を探り始める。
「お借りします」
断って窓台に並んだ大小さまざまな容器を手に取った彼女は、マグメルを伴って小屋の外に出ていった。
ややあって湯を沸かした小鍋を手に戻ってくると、シオンは慣れない手つきで何かの準備を始める。
「お礼というわけではありませんが、お茶の代わりにどうかと思いまして」
彼女が手にした茶こしにならし入れたのは、見覚えのある褐色の粉末だった。
マグメルが並べたまちまちの大きさの容器に、シオンは茶こしを通して湯を注いで回る。
じっくりと時間をかけて少しずつ湯が注がれると、辺りに懐かしさすら覚える香ばしい香りが立ち上っていった。
「おお、こいつは——」
「正しい入れ方でないのはご理解ください」
にわかに表情を色立たせる落羽に、シオンは念を押すように言う。
「有難い、こんな森の中じゃそうそう口にできるものじゃない」
シオンの入れた珈琲をじっくりと味わってすすると、落羽は深く感じ入るようにうなった。
「うまいな」
「お口に合って何よりです」
答えつつ、シオン自身もちびりちびりとそれを口に運ぶ。
マグメルはひと口飲んで「うえ」と舌を出し、辺りの小瓶や壺などを端から開けて回り始める。
エデンも黒々とした液体を懐かしむように味わい、眉間に皺を寄せるシオンに視線を向ける。
「これ、もしかして——」
湯飲みを両手で包むようにして尋ねると、彼女はわずかに言いよどみながら答える。
「はい。林檎亭のご主人にいただいたものなのですが……あれ以来入れる機会を逸していまして」
大きめの湯飲みに顔をうずめる彼女の気遣いは、エデンにもよくわかった。
苦く酸味の効いた目の覚めるような味に触れれば、三人が三人とも旅の中で行き会った蹄人の少女のことを思い出すに違いない。
彼女を忘れたことなどなかったが、それでも自身とマグメルに、可能な限りそのことを考えさせないようにしてくれたシオンの配慮なのだろう。
背嚢の中にしまい込んだそれを見る度にシオンが一人自らを責めていたと考えると、今ここでその思いを共有できてよかったように思えてならない。
砂糖を求めて小屋中を探り回るマグメルにふと目をやれば、背中を向けた彼女は小さな壺を見つけてその蓋を開け放っているところだった。
中身をのぞき込んでも逆さにして振っても何も出てこない。
「悪いが砂糖はないぞ」
落羽に言われて望みを絶たれたマグメルは、何も加えていない珈琲をしぶしぶといった口に運び始めた。
それぞれがそれぞれに珈琲を味わう、つかの間の休息の時間が訪れる。
久しぶりに飲む珈琲は苦くて口に合うとは言い難かったが、乱れた心をわずかながら静めてくれる気がする。
珈琲を飲みながらも、落羽はカナンの様子から寸時も目を離さなかった。
視線の先を追って彼女を見詰めれば、その吐息が先ほどよりも心なしか落ち着いているように映るのは自身の希望故の思い過ごしだろうか。
カナンの顔を見詰める中、不意に沼地での彼女の言葉が頭をよぎる。
「そうだ、シオン。いろいろ調べてくれてたって——カナンから聞いたんだ」
「はい。今日——もう昨日ですが、一日で相応の収穫を得ることができました。今となってはもう遅いかもしれませんが」
答えて彼女は寝台の上のカナンからエデンへと視線を移す。
「聞いてくれますか?」
「うん、お願い」
「それでは——」
懐から愛用の手帳を取り出して一頁を開くと、彼女は自らの書いた文字をなぞりながら静かに話し始めた。




