第四十二話 喪 神 (そうしん)
「——百枚だあ!? てめえ、ふざけるのもいい加減にしやがれ!! 百枚つったらなあ、家一軒買っても釣りが出るぞ!!」
アシュヴァルは怒りに任せて声を荒らげるが、胸ぐらをつかまれたままの商人は顔色ひとつ変えずに言い放った。
「いいえ、百枚です。それ以上は小銭一枚とてまけられません。貴方、彪人の用心棒さん。これでも私ね、一か八かの、生きるか死ぬかの大博打を張り続けてここまできたんですよ。暴力では勝てませんがね、金のやり取りが絡む以上はこちらの領分です。商人として、蹄人として——食い物にされてばかりではいられないんですよ。いいですか。私から物が買いたいと仰るのであれば、ここは私のやり方に従っていただきます。お嫌でしたら結構です、どうぞお引き取りを」
しばし互いの顔を見交わしたのち、先に動いたのはアシュヴァルのほうだった。
雑な手つきでもって解放され、椅子に掛け直した商人は、当て付けるようなわざとらしいせき払いをもって呼吸を整え、続けて仰々しいしぐさで乱れた襟元を正す。
そんな彼をアシュヴァルは恨みがましい目つきでにらみ付ける。
小さく舌打ちをして机の上の金貨の山に視線を落とすと、彼は無言でつかみ上げたそれらを麻袋と巾着とに戻し始めた。
「出直す」
「で、でも——アシュヴァル……!!」
短く吐き捨てるアシュヴァルに、すがるような目で見上げる。
今ここで引き下がれば、なんの成果も得られないばかりか、ローカは商人の語る何者かによって——それも真偽の程も定かではない、不老不死の薬として買われてしまうかもしれないのだ。
買われた先に起こるであろう出来事を想像し、激しい不安と焦燥に襲われる。
「いいから今日は帰るって言ってんだ!!」
突如として店内に響いたのは、咆哮にも似た怒声だった。
店中を震わせるアシュヴァルの声により、幾つかの商品が棚から転げ落ちる。
「これがこいつらのやり口だ!! こうなったら梃子でも動かねえのがこいつらなんだよ……!! この三十が俺のありったけ、これ以上は逆さに振っても鼻血も出ねえ。倍ありゃ足りると思ってた俺が甘かったぜ。だから——今日のところは出直すしかねえんだよ……!」
アシュヴァルは少年に巾着袋を押し付けると、麻袋から取り出した銀貨を一枚、たたき付けるように机の上に置いた。
「……騒がせたわびだ」
荒々しい足つきで踵を返したアシュヴァルは扉の前で立ち止まり、背中越しに吐き捨てるような声音で言う。
「何やってんだ、帰るぞ」
「で、でも——!!」
どうしても諦め切れずに声を上げるものの、アシュヴァルの背を目にして反射的に押し黙る。
激しく上下する肩は、やる方ない憤りをどうにかして押さえ込もうとしているためだろう。
これ以上この場に居座ったとしても、衝動的に動いたとしても、彼女を連れ帰ることなどできないと彼は知っているのだ。
大股で店を出ていくアシュヴァルの背に、届くはずもない無言の首肯を送る。
次いで床に座り込んだままのローカの元に歩み寄ると、少年は自身もその場に膝を突いた。
「……何度もごめん」
まずもって伝えるのは謝罪の言葉だ。
ぬか喜びをさせてしまっただろうか。
落胆させてしまっただろうか。
二度と同じ失態は繰り返さないと誓ったにもかかわらず、またしても同じ失敗を犯してしまった。
もう何を言っても信じてもらえないかもしれないと思いつつも、切歯扼腕の思いを噛み締めながら少女に向かって告げた。
「必ず迎えにくるから……!! 約束するよ……!!」
「約束」
無感情に少女は繰り返す。
それが自身の口にした言葉を反復しただけなのか、それとも誓いに対する受容であったのかはわからない。
床に座り込んだままのローカに思いを残しつつ、少年は踏ん切りをつけるように踵を回らせた
往来の真ん中には、雨に濡れながら待つアシュヴァルの姿がある。
その元へと歩み寄りつつ、手にした巾着袋を懐にしまおうとした瞬間、硬貨の詰まったそれが、手を離れて落下していくところを目に留める。
気付いて手を伸ばそうとしたときにはすでに遅く、口を縛っていなかった袋は地面に落ちると同時に、その中身を辺り一面にまき散らしていた。
皆から預かった大切なお金が——そんな思いの元に散らばった金貨を拾い上げようとするが、なぜか身体が言うことを聞かない。
四方八方へと転がっていく金貨たちを真横から眺めていることに思いが及ぶと、ようやく自身がその場にうつぶせに倒れ伏していることを理解した。
「……おい!? 大丈夫か、おい!!」
アシュヴァルに抱え起こされながら、先ほどまで自分たちが滞在していた店に視線を向ける。
目に留めたのは、雨に打たれながら店先に立ち尽くすローカの姿だ。
アシュヴァルの腕の中から、半ば無自覚のまま手を差し伸ばす。
届く距離ではないと知りつつも、少女に向かって無心で手を伸ばし続けた。
焦点の定まらない目で、一歩二歩と歩み寄るローカを捉える。
彼女もまた手を伸ばしていることに気付き、無理を押してアシュヴァルの腕の中から身を乗り出した。
手と手が触れ合う寸前、少女は張り詰めた首輪の縄に引かれてその場に転倒する。
小さくせき込みながら身を起こす少女の冷ややかな瞳、そこから頬へと伝う滴が雨なのか、あるいは涙なのかはわからない。
薄れていく意識の中、少年は「約束、約束だから——」とうわ言のように繰り返していた。