第四百二十三話 虧 月 (きげつ) Ⅱ
「ど、どこに——」
呟きつつ辺りを探っていたエデンは、目に前に何かきらりと輝くものを見て取る。
それがヒラールの握った鉤爪から滴った水のひと滴だと気付いた瞬間、反射的に手にしたマグメルの短剣を前方に向かって突き出していた。
「——うわあっ……!!」
幸運にも短剣はヒラールの繰り出した鉤爪をはじく。
その段になり、エデンは彼の狙いがマグメルから自身へと移っていることを悟る。
「エデン!!」
「よそ見すんなって」
事態に気付いたカナンが名を呼んで駆け寄ろうとするも、皮肉げな笑みを浮かべて一層激しく攻め立てるカマルがそれを許さない。
周囲を探っていたマグメルも木道の上を走るが、ヒラールの繰り出した二撃目のほうが一段早かった。
「ぐ——」
防いだ短剣ごと押し込まれて尻もちをつくように木道に腰を落としたエデンは、せめてもの抵抗と手にした短剣を頭上に向かって構える。
どこから飛んでくるのかわからない攻撃に備え、周囲に気を配っていたところだった。
鋭い風切り音とともに飛来した一本の矢が虚空に突き立つ瞬間を目に留める。
徐々に目の前の空間がゆがみ、肩口を押さえたヒラールが姿を現す。
矢の刺さった肩から流れ落ちた赤色の血液が、半透明の身体を伝って流れ落ちている。
ヒラールは握り込んでいた鉤爪を取り落とすと、「く」とくぐもったうめき声を漏らして膝を突いた。
「——シ、シオン……!」
矢の飛んできた方向を振り返れば、はるか遠くの高台に弓を構えた少女の姿が目に入る。
続けて放たれた二本目の矢もエデンの脇を通り過ぎ、カナンと対峙していたカマルの手から短刀をはじき飛ばす。
カマルは自らの身に何が起こったのかが分からないようで、空になった手をあんぐりと口を開けて眺めていた。
カナンはその隙を見逃さない。
槍をその場に置いて身体ごとぶつかっていき、全体重を乗せてカマルに伸し掛かる。
「お、おい……!! 何しやがる! 離せ、こら!!」
ぬるぬるとした粘液をまとわせた身体をよじって拘束を解こうとするカマルだったが、カナンは筈の形にした手で動きを押さえ込む。
喉元を圧迫されて苦悶の表情を浮かべるカマルをますます力強く組み伏せながら、彼女は意趣返しとばかりに言った。
「よそ見は禁物だぞ」
「うぐぐ」
カマルはうなり声を上げ、彼女をにらみ上げる。
「若……!!」
矢傷を負った身体を押し、ヒラールが立ち上がる。
木道に転がった一対の隠し爪に手を伸ばす彼だったが、マグメルはそれぞれを別方向へ蹴り落としていた。
「あー!! わーかった、わかったって!! ——お前の勝ち!!」
カナンに組み敷かれた体勢のまま、カマルが突として大声を上げる。
そして無抵抗を示しでもするかのように、両手を頭上に掲げて吐き捨てた。
「俺様の負けでいいって! はいはい、強い強い! ……あー、萎えるわー」
全身を力なく弛緩させて木道に横たわると、カマルはすねたようにそっぽを向いてしまう。
十分に注意を払っているように見えたが、さすがのカナンも急激に態度を一変させる彼を前にして、若干気抜けしている様子だった。
「元より君たちと争う意図はない。これ以上私の仲間に手出しをしないと約束するのならば、こちらも手を引こう」
「あー、しねえしねえ! もう手は出さねえって!!」
まくし立てるように答えるカマルを見下ろすと、カナンは喉元にあてがった手を引っ込める。
何か違和感を覚えたのだろうか、カナンが粘液に塗れた自らの手に視線を落とした瞬間、カマルはにやりと口元をゆがませた。
直後、その口が大きく開け放たれたかと思うと、カマルの口内からひと振りの短刀を絡めた舌が現れる。
細く長い舌を器用に使って勢いよく突き出される短刀だったが、カナンはとっさのところで首を傾けてかわす。
そして口内に引き戻される途中のそれを、驚くべき反射神経でつかみ取った。
「はっへはっへ、ほへははえ、はえはっえ——!!」
舌に絡めた短刀を取り落としたカマルは、両手を振り乱しながら懇願するように言い立てる。
だがカナンは抵抗するカマルの言葉に耳を貸すことなく、つかんだ舌を問答無用で引っ張った。
手が離されたことにより、勢いよく巻き戻った舌が顔面を打ち付ける。
「んべっ——!!」
自らの舌で強かに顔を打たれて身をのけ反らせた彼は、激しく身体を暴れさせ、両足を使って押しのけるようにして拘束から抜け出した。
ふらふらとおぼつかない足つきで起き上がったカマルは、だらしなく伸び切った舌をぶら下げながら、恨みがましい視線をカナンに投げ付ける。
「……へっへえふふはへえははは、ほほひへやふ、へっへえほほふ——!!」
発音は曖昧であるものの、口にする言葉には激しい怨嗟の色が宿っているのがわかる。
彼は両手で手繰るようにして舌を口内に収め、エデンたちを挟んで木道の反対側で膝を突くヒラールへと視線を向けた。
小さな首肯を返して水中に飛び込んだかと思うと、ヒラールはいまだ沼の中に沈むバドルの巨体を蹴り付ける。
「バドル、いつまで寝ている」
「んあ? ——朝めし? それとも昼めしかなあ?」
能天気な口調で言って起き上がった彼は、矢傷を負ったヒラールを認めて取り乱したようなそぶりを見せた。
「ヒ、ヒラール!? それ、どうしたの!? 早く手当てしないと!!」
「私は平気だ。それよりも——」
言って木道の上で口元を押さえるカマルに目を向ける彼の視線を追い、バドルは辺りに響き渡るほどの大声を上げる。
「あああっ、若さまああああっ!!!!」
巨体に似合わぬ俊敏な動きでカマルの元に跳ね寄った彼は、その小さな身体をうやうやしく抱え上げる。
バドルに続いてカマルの傍らに音もなく侍り、ヒラールは無念の表情を浮かべて言った。
「仕損じました。申し開きのしようもない」
「ああ、いいさ」
バドルの肩の上にまたがったカマルは、首を垂れるヒラールを見下ろしながら応じる。
次いでカマルはその掌でバドルの頭を軽く打った。
「行くか」
「——うん、わかった」
バドルは肩の上のカマルを見上げて答えたのち、太く長い両手を頭上高く振り上げる。
彼が振り下ろした左右の掌で勢いよく水面を打てば、辺りに噴水か逆巻く滝のような水しぶきが上がった。
やや遅れて、辺りに雨のように飛沫が降り注ぐ。
エデンが巻き上がったしぶきの向こう側に目を向けたときには、三人の蛙人は影も形も残さず完全に姿を消していた。




