第四百二十二話 虧 月 (きげつ) Ⅰ
「何者だ!! こそこそと隠れていないで姿を現せ!!」
槍を引き戻したカナンが叫ぶと同時に、沼の中から水の塊のようなものが飛び出してくる。
ひたりと湿りけのある音を立てて木道に着地した半透明の水塊は、静かに形状を変えていく。
「わわ、なに!? なにあれ!?」
縦方向に細く長く伸び上がっていくそれに、驚愕をあらわにして身を震わせたのはマグメルだ。
目を凝らして見詰める三人の前で、徐々に水の塊は四肢を有した人の姿に変わっていった。
変わっていったのではない——そう気付いたのは、目の前の人物の身体の作りを見て取ったからだ。
小柄なカマルや大柄なバドルと同じ蛙人であろう長身痩躯の人物は、半透明に透ける特異な肉体の持ち主だった。
身体の内側の骨や筋肉に加え、臓器や血管を流れる血液までが目視できるほどに透き通っている。
姿を変えたように見えたのは、水中から飛び出した蛙人が膝立ちの姿勢から立ち上がったからだ。
目を疑うようなその特色に皆が言葉を失う中、次いで水中から木道に飛び乗ったのは小柄な蛙人のカマルだった。
「毎度毎度遅えんだよ! この野郎——!!」
カマルは半透明の身体を持つ痩身の蛙人を肘で打ち、次いで水面から巨腹を突き出す形であおむけに沼に沈むバドルをいまいましげに見やる。
「け」と不快感をあらわに舌打ちをしたのち、彼はエデンたち三人にねめ付けるような視線を走らせた。
「さてと、お帰り頂く前にもうちょっと遊んでやるかな」
手にした短刀を左右の手に持ち替えつつ進み出るカマルに対し、痩身の蛙人が表情を変えずに言う。
「若、戯れも結構ですが本懐をお忘れなきように」
「いちいちうるせえ奴だな、ヒラール! ……わかってるよ、おふくろかお前」
後方を見上げて不機嫌そうに言うと、カマルは肩をすくめてエデンたちを見据えた。
「ってわけだ。あんまり遊びが長引くと、後々こいつから七面倒なお小言を頂戴しなくちゃならねえ。ってことで、きりきりやらせてもらうぜい」
カマルは長い舌で短刀をねぶり、後方に控える痩身の蛙人——ヒラールは鉤爪のような武具を手の内に隠すように握り込む。
無言でおのおのの得物を構え直すカナンとマグメルの姿を認めたのち、エデンは預かった短剣に視線を落とし、顔を上げて今一度カナンの肩越しに蛙人たちを見据えた。
「ま、待って——!!」
首をひねって振り返るカナンと後方から見上げるマグメルの視線を受けながら、エデンはカマルらに向かって口を開く。
「じ、自分たちには君たちと争う理由なんてなくて——!! だから、話を……話を聞かせてほしいんだ!!」
「理由だ? 話だあ……?」
エデンの口にした言葉を呟くように繰り返し、カマルは気勢をそがれたかのような真顔を浮かべる。
そして突然大声を上げて笑い始めたかと思うと、左右の手を激しく打って言った。
「ひゃひゃひゃ——!! こいつは傑作だぜ! おい、聞いたかヒラール! こいつ、俺様たちとおしゃべりがしたいんだとよ!?」
後方のヒラールを見上げて言ったのち、カマルはあざ笑うような含み笑いをその顔に張り付けつつエデンを見据える。
「……いいぜ、しばしご歓談の時間ってやつだ。一つだけ質問に答えてやる。言ってみな、言ってみな」
「およしなさい、若」
構えを解くカマルをヒラールがたしなめる。
「いいじゃねえか、固えこと言うなって。どうせもう手遅れなんだからよ」
カマルはヒラールの言葉に耳を貸そうとせず、ただにやにやと笑みを浮かべてエデンの動向をうかがう。
「じゃあ、その……聞かせてもらうけど、どうして自分たちが向こう側に行こうとするのを——」
そこまで言って一度言葉を切り、頭の中に渦巻く疑問をひと息に口にする。
「——自分たちが鱗人のところに行くと何かよくない理由があるの? それに君たちの言う目的と……さっきの同類っていうのは——」
「あい、そこまで」
立て続けに放たれる問いを、カマルは手刀を切って断ち切る。
「ちゃんとお話聞いてたか? 俺様、一個って言っただろ? あんまり欲張りが過ぎると、いつか身を滅ぼすことになるぜ」
掌の中の短剣をもてあそぶようにひと回しすると、彼はエデンを見上げて口を開いた。
「別にお前らがこそこそうろつき回ろうと、ここまで来ちまったら大勢に影響はねえけどな。——でもよ、だからこそだよ。後は最後まで黙って見守ってやろうじゃねえかってわけさ。危急存亡の秋ってやつをよ」
「若」
「ま、そういうこった」
ヒラールに先ほどよりも語気強くたしなめられ、カマルはおどけたように両手を頭上に掲げてみせる。
「飯の種にもならねえ薄っぺらいおごりと思い上がりで身を滅ぼし合おうってんなら世話ねえってこと。だからよ、いらねえってんなら俺様たちがもらってやるって言ってんの。この水場も、そっちの洞窟もあっちの樹もよ!!」
両手を左右に広げて言うカマルに、エデンは重ねて問い掛けようとする。
「そ、それはどういう意味——」
「よせ、エデン。時間稼ぎだ。これ以上奴らの茶番に付き合う必要はない」
カナンは制止の言葉とともに、再度槍を構えながら続ける。
「ここは早々に切り抜けて次の手を打つべきだ。シオンの見立てでおおよその事情は理解している。私とて槍を交え、誼を結んだ相手に裏切り者とそしられるのは本意ではない。手立てがあるにしろないにしろ、こんなところで筋違いの相手と関わっている暇などないはずだ」
「で、でも……」
「悪いがここは私に付き合ってもらう」
「さんせーい!!」
切り捨てるカナンに、声を上げて同意を示したのはマグメルだ。
「あたしもこいつらきらーい!!」
言ってマグメルが舌を出せば、カマルも短刀を握り直しつつ応じる。
「気が合うじゃねえか。望み通り相手してやんよ! ——こいつの礼も含めてだ!!」
沼に沈んだバドルを横目に見たのち、カマルは正面を見据えたまま後方に控えるヒラールに向かって告げる。
「おい、ヒラール!! 一気に決めんぞ!! もたもたしてっと大事な山場を見逃しちまう!!」
続けてカナンを正面に捉えた彼は「俺様の相手はその女で——」と口にし、次いで「お前はそっちの小うるせえ奴を頼む」とヒラールに向かって指示を出す。
「御意」
ヒラールが短く答えると、身を低く構えたカマルはエデンをちらりと一瞥する。
「お前は最後に相手してやるからよ、それまでどっかで遊んでな。——んじゃまあ、始めっか!!」
言うと同時にカマルは身を低くして跳ねる。
カナンに急接近した彼は、槍の柄をくぐるようにして間合いの内に飛び込む。
カナンが下方から突き上げられる刃を足さばきだけでかわしてみせれば、カマルはすぐさま距離を詰めて攻め続ける。
しかしながらカナンも容易には攻めを許さず、柄の中ほどで刃を受け流しつつ、石突きで打ち上げるようにして槍を振り上げた。
足場である木道にぺたりと密着するほど身を屈めてこれをかわすと、カマルは姿勢を低く保ったまま執拗に彼女の足元を狙う。
「カナン! あの武器、毒が……!!」
エデンが後方から声を放てば、カナンは槍を振るいながら「ああ」と応じる。
「やり口でわかるさ」
言って槍の柄を短く構え直し、長い髪を背中側に振った。
常にカナンの間合いの内側に身を置くカマルの戦い方は、長柄の武具の弱点と自らの小柄な身体、そして毒の持つ優位性を十分に理解した戦法であるように見える。
軽業のような動きで相手を手玉に取り、隙を狙って短刀を繰り出す。
木道という狭い戦場はカナンにとって得手の槍を振るうには狭すぎるのだろう、地の利もカマルの側に有利に働いているようだった。
一方でエデンを挟んだ木道の後方では、マグメルとヒラールが短剣と鉤爪を打ち合わせている。
周囲の景色に溶け込むように姿を消したヒラールの繰り出す左右の鉤爪を、マグメルはひと振りの短剣でたくみに受け流し続けている。
金属製の爪は攻撃の際に一瞬だけ姿を現すが、ヒラールが掌で握り込んでしまえばほとんど見えなくなってしまう。
「うそうそ!? 見えない、見えないよ!!」
泣き言でも漏らすかのように声を上げるマグメルだったが、繰り出される鉤爪の一打一打をはじく短剣さばきは極めて正確だった。
それをなすのは優れた動体視力に加え、彼女の有する天性の勘なのかもしれないとエデンは感動を覚えていた。
「うりゃっ!!」
鉤爪を受け流しつつ反撃の機会をうかがっていた彼女が叫び声をともに放った蹴りが、ヒラールの腹部を捉える。
「やった! あたった!!」
「……不覚」
木道の上に転がった彼は、姿を現しつつ呟く。
だが身体の輪郭がおぼろげにぼやけたかと思うと、周囲の景色が人型にゆがみ始める。
再び辺りの風景に紛れるようにして姿を消すヒラールを前に、マグメルはいら立ったように声を上げた。
「また!? どこ、どこどこー!? もー、見うしなっちゃったじゃん!!」
手庇をして辺りを見回すが、その姿を捉えることはできないようだ。
エデンも彼女から借り受けた短剣を握り締めながら周囲にヒラールの姿を探したが、景色になじんで消えた彼の居所を突き止めることはできなかった。




