第四百二十一話 盈 月 (えいげつ) Ⅱ
引き戻される見慣れた槍の石突きを追って振り返ったエデンが見て取ったのは、得物を構え直すカナンの姿だった。
「カナン!! 無事だったんだ、よか——」
「話は後だ」
安堵と喜びの言葉を遮ると、彼女はマグメルを横目に見ながら木道を進む。
「遅れてすまなかったな。私の居ぬ間、よくやってくれた」
言いながらマグメルと腕を触れ合わせたカナンは、エデンの脇を通り過ぎてバドルの面前へと進み出る。
「交代だ。以後は私が相手を務めよう」
石突きを前方に向けて構えつつカナンは言うが、背を向けたままのバドルは一切反応を示さない。
「私が相手では不足か——?」
重ねて尋ねる彼女に対し、のそりと身を返したバドルは巨体を震わせながらこぼす。
「よくも……」
そして高く振り上げた左右の掌を、勢いよく木道に振り下ろした。
「……よくも若さまをやってくれたなあっ!! おれ、おこったぞ!!」
激しい音を立ててはじけ飛ぶ木道から飛びのきつつ、カナンは後方に向かって短く告げる。
「ここでは分が悪い!! いったん引いて立て直す!!」
三人は再び木道を森の方向に引き返しつつ、激しく怒り立つバドルから距離を取る。
ただでさえ巨大な身体をより一層丸く大きく、夜空に浮かぶ満月もかくやとばかりに膨らませた彼は、剛腕を振り回し、木道を左右になぎ払いながら猛追してくる。
「あいつもやばいやつ!」
後方を顧みながら言うと、マグメルはエデンに向かって短剣の柄を差し出す。
「これ、エデンが持ってて」
「——う、うん……!」
答えて短剣を握ったエデンは、最後尾を走っていたカナンが突如として立ち止まるところを認める。
槍を構えた彼女は振り払われたバドルの右の平手を身をのけ反らせてかわすと、続けて石突きを腹部目掛けて突き出した。
だがエデンの剣を受け止めたときと同じように、カナンの槍も弾力のある表皮によってはじかれてしまう。
続けて逆方向から振り払われた左の平手を身を屈めてかわした彼女は、勢い余って均衡を欠いたバドルの身体に渾身の回し蹴りを叩き込んだ。
バドルは頭から沼の中に突っ込んだが、即座に頭部をもたげるようにして水中から身を起こす。
その様子に手傷を負った気配はみじんもない。
「よくも若さまを……」
取りつかれたかのように怒気に満ちた呟きを漏らすと、ますます大きく腹部を膨らませた彼は、頭上に向かって身震いするような吼え声を放った。
「うおー!!!! 若さまをいじめるやつはおれがゆるさねえぞお!!!!」
「ねね、どうすんの!?」
「さて、どうしたのものか」
水をかいて進んでくるバドルを前にしてマグメルが問えば、カナンは頭をひねって答える。
迫るバドル、エデンとマグメル、次いで破壊された木道を順に見やったのち、カナンは視線を再びマグメルへと戻した。
「ここに立ってくれないか」
言って彼女が指し示したのは、壊れて水中に沈んだ木道の一部である木板の先端だ。
「ん、なになに? いいけど——ここがなんなの?」
「そこから動かないでくれよ」
疑いもせず示された場所に飛び乗るマグメルを認めると、カナンは短く告げて距離を取る。
「一つ、二つ——」
秒読みでもするかのように言い、マグメルに向かって走り出す。
「わ、なに!? どういうこと!?」
周章をあらわにしつつも、マグメルはカナンの指示通りに一歩もその場を動かない。
バドルが目前まで迫る中、走るカナンは掛け声とともに思い切り跳躍した。
「——三っつ!!」
彼女が全体重を乗せて着地したのは、マグメルの立つ木板のもう一方の端だ。
橋脚を支点にして傾き上がった板の末端にカナンが飛び乗ったことにより、マグメルの身体は勢いよく跳ね上げられる。
「わ!? うわ!? えー!?」
突然の出来事にすっとんきょうな声を上げて宙を舞うマグメルだったが、カナンの意図に気付いたのか、すぐさま空中で体勢を立て直した。
「——おりゃ!!」
落下の勢いのままに前方回転すると、マグメルは何事かと見上げるバドルの頭部目掛けて踵落としを決める。
あらゆる攻撃をものともしない柔軟な表皮を有する彼でも頭部を揺さぶる衝撃までは防ぎ切れなかったのか、バドルはたたらを踏むようにして沼の中にその身を沈めた。
崩れ落ちるバドルの身体を蹴って木道に飛び移ったマグメルは、カナンを見上げて不服を示す。
「もー! なにすんの! むちゃくちゃだよ!!」
「なかなかやるじゃないか」
カナンは詰め寄る彼女に対し、笑いをこらえながら告げる。
ねぎらっているのかからかっているのかわからない物言いに、マグメルは「むー」とうなって頬を膨らませる。
「ありがとう、マグメル」
エデンが感謝を伝えると、彼女は渋々といった様子で怒りを解いた。
「やっつけたからいいけど」
「助かったよ、カナン! それに無事でよかった……!!」
改めてカナンに礼を伝え、辺りにその姿のないもう一人の少女の安否を尋ねる。
「シオンは?」
「大丈夫だ。すぐに追い付いてくるだろう」
答えて水中に沈んだバドルを見下ろし、次いで彼女はカマルの吹き飛んだ方向を見やった。
「気配がするとシオンが言うので、私が先行させてもらったんだ。間に合ってよかった」
小さく嘆息してエデンに向き直ると、カナンは主を失った鞘を指先で示す。
「ところでエデン」
「うん、そうなんだ——」
首肯で応じつつ、剣のはじき飛ばされた方向に視線を向ける。
どこかに沈んだそれを探そうと目を配っていたところ、指を突き出して声を上げたのはマグメルだ。
「あ! 見て見て、あそこ!!」
彼女の差し示した場所を視線で追ったエデンは、水面からわずかにのぞいた剣の柄を目に留める。
「ほんとだ——!」
幸いにも剣は木道からそう遠くないところに沈んでいた。
「——よし……!」
エデンが衣服の裾を袖をまくり上げて沼の中に足を踏み入れようとしたところ、傍らのマグメルが沼に向かって鉤付き縄を投じる。
先端の三本爪で水中から顔を出した柄を捉え、彼女は縄を手繰って剣を沼底から引き抜いた。
「すごい……!」
感嘆しつつ木道に手足を突き、近づいてくる剣に向かって手を伸ばす。
指し伸ばした手が縄に絡められたその柄に触れるか触れないかの距離まで近付いたそのとき、剣は蹴り上げられでもしたかのように宙を舞った。
鉤付き縄から外れた剣は再び沼の中に沈む。
「……え——」
「もう一人いるぞ!! 気を付けろ!!」
手を突き出したままのエデンが動揺の声を漏らした直後、カナンが鋭く注意を促す。
「私としたことが……抜かった!!」
槍を構え直した彼女は、手にしたそれを大きく弧を描くように振り払った。
水面と平行になぎ払われた槍は、中空の何もないところにぶつかってはじかれる。
ただ金属同士のぶつかり合う音だけが響く様子は、エデンの目に恐ろしく異様に映った。




