第四百二十話 盈 月 (えいげつ) Ⅰ
「おいっ!! 出番だぞ、とっとと出てこい!!」
直後、沼の中ほどから激しい水しぶきが上がる。
水と泥を跳ね上げつつ、沼の中から一人の蛙人が身を起こしたからだ。
姿形は目の前の小柄な蛙人とよく似ているが、彼の数倍はあろうかという大きさの身体を有している。
現れた蛙人は水中に身を置いてなお見上げるほどの背丈と、大きく肥え太った腹部の持ち主だった。
ぼうぜんとその体躯を見上げるエデンの隣では、大口を開けたマグメルも驚きの声を漏らしている。
「わ、おっき——!」
沼面を波立たせて木道に身を寄せた赤褐色の体色の大柄な蛙人は、小柄な蛙人を見下ろして幅広の口を開いた。
「今、おれの出番って言った?」
「言った言った、そう言ったんだよ!!」
小柄な蛙人は大柄な蛙人を見上げて腹部を打つと、差し出された掌を足場にして彼の肩に飛び乗った。
「なあなあ、聞いてくれよ。こいつらがな、不届きにも俺様たちの邪魔しようとしてやがるんだ。悪いがお帰り願えねえかってお頼み申し上げたんだがよ、聞き入れてもらえなかったってわけ」
大柄な蛙人の肩にまたがった小柄な蛙人は、その頭部を両手でぺしぺしとたたきながら言う。
「だからよ、お前のほうからも言ってやってくれよ。ここはひとつお引き取り願えねえか——ってな」
「うん、わかったよ。若さまがそういうなら——」
答えてエデンとマグメルに視線を移した大柄な蛙人は、心底申し訳なさそうな口調で呟いた。
「——だから、ごめんね。きみたち」
言うが早いか深く身を屈めた大柄な蛙人は、鈍重そうな姿からは想像もできないほどの跳躍力で沼の中から飛び上がる。
舞い上がる水と泥を防ぎつつ頭上を見上げていたエデンとマグメルだったが、その落下の先にあるのが自分たちであると気付いたときには、木道を取って返すように走り出していた。
「エデン、にげるよ!! 早く早く!!」
「う、うん——!!」
懸命に走りはするが、がたつく木道の上では思うように足が回らない。
それでもマグメルに背中を押されて懸命に走るエデンが振り返って見たのは、大柄な蛙人が木道の上に着地する瞬間だった。
木道は巨体によって踏み崩され、派手な音を立てて粉砕された木片が辺りに飛び散る。
揺れる足場を取って返す後方では、小柄な蛙人のものであろう甲高い笑い声が上がっていた。
「ひゃひゃひゃ!! こいつはいいぜ!! おら、踊れ踊れ!!」
ちらと振り返ってみれば、大柄な蛙人の肩に足を絡める形でしがみ付いた小柄な蛙人が両手を打って喜んでいる。
「おら、バドル! もういっちょだ、もういっちょ!!」
「うん、わかった」
頭をたたきながら言う彼の言葉にうなずきをもって応じると、バドルと呼ばれた巨体の蛙人は再び高々と跳び上がった。
「わ!! また来るよ!!」
「うん——! に、逃げないと……!!」
先ほどと同様に木道を破壊しながら迫るバドルに背を向け、エデンとマグメルは前だけを見て一心不乱にひた走る。
「そらそら!! 逃げた逃げた!! 逃げねえと踏みつぶしちまうぞ!! このカマル様のやることに水差そうなんざ百億万年早えんだよ!!」
小柄なほうの——自らをカマルと呼ぶ蛙人は、小躍りでもするかのように手を打って喜びを表している。
「あんなのずるだよ!! このままじゃ追い付かれ——」
後方を振り返りつつ口を開くマグメルが不意に足をもつれさせる。
「——わっ……!!」
小さく叫んだかと思うと、その場に勢いよく倒れ込んでしまう。
身軽が売りの彼女が転ぶところなどめったに見られない。
先ほどの戦いの疲労が後を引いているのだろう。
「マグメル!! 」
とっさに立ち止まって名を呼び、転倒する彼女の元に引き返す。
手を差し伸ばしてその身を引き起こしながら、エデンは彼女と入れ替わるように前方に進み出る。
目の前の足場を踏み壊して眼前に迫るバドルの巨体に向き直り、腰を低く屈め、手と膝を木道に付けて衝撃と振動をこらえる。
「エデン!! だめ!!」
マグメルの声を背中に聞きつつ、意を決して腰の鞘から刃を抜き放つ。
バドルが再び跳ね上がるまでの間隙を狙い、振りかぶった剣をその腹部目掛けてけさ懸けにないだ。
「ごめんっ……!!」
身体に届く直前に刃を返し、峰部分を腹部にたたき付ける。
刀の背とはいえ同じ人相手に剣を振るうことに心苦しさを覚えなくもなかったが、仲間を守るためならばと己に言い聞かせながら。
「……あれ——?」
確かに手応えはあった。
両の掌から腕に伝わるしびれは、確かに自らの振るった剣がバドルの巨腹を打ったことの証明だ。
だが目の前の蛙人は、顔色一つ変えることなく自身を見詰めている。
痛みに表情をゆがませてもいなければ、怒りをあらわにしているわけでもない。
恐る恐る握った柄の先を目で追うと、吸い込まれでもしているかのようにバドルの腹にうもれている剣先が目に入る。
思い返せば剣を振った際に手を伝わってきたのは、人の身を打ったというより、弾力のある麺麭の種か何かを打ったような感覚だった。
もう一度頭上を見上げると、バドルはどこか哀れむような表情を浮かべて言った。
「こっちこそごめん」
口にするや、彼は「ふん」という掛け声とともに丸々とした腹部をさらに大きく膨らませる。
「うわっ!?」
同時にその腹部に食い込んでいた剣は、振るった際と正反対の軌跡を描いて跳ね飛ばされる。
勢いよくはじかれたことにより手を離れて宙を舞い、そのまま音を立てて水中へと沈んでしまった。
「し、しまった……!! 剣が——」
腹をさすりながら自身を見下ろすバドルから視線をそらし、沼の中に落ちた剣の行方を目で追う。
だが夕暮れの日の下で濁った沼の中を見通せるわけもない。
目を凝らして水中を探ろうとしたところ、不意に耳元にあざ笑うような声を聞いた。
「よそ見してちゃだめだって」
声の主はバドルの肩の上から身体を伝い、腕に足を絡めるようにしてぶら下がった小柄な蛙人だった。
顔を突き出した蛙人——カマルは、手にした短刀の腹でエデンの顔をなでながら言う。
「もっかい言うけどよ、俺様のやることに横槍入れようなんざ——」
剣に固執するあまり目の前の相手に対する注意を怠った結果、完全にカマルの間合いに入ってしまったことにようやく思い至る。
至近距離から見据える彼から後ずさりするようにして身をかわそうとしたその瞬間、エデンは顔の横を何かが勢いよく通り過ぎていく感覚を覚える。
それは眼前に迫る短剣をはじくと、そのまま使い手のカマルを打つ。
「ぎゃ——」
短い悲鳴を上げたカマルはバドルの身体から引きはがされ、大きく後方へと跳ね飛んでいった。




