第四百十九話 朏 魄 (ひはく) Ⅱ
「それよりだ。俺様のことは置いといてよ、お前らはなんなんだって。ここいらじゃ見ねえ顔してるじゃねえか」
「じ、自分たちは——」
蛙人を自称する小柄な男に対し、エデンは自らの事情を説明しようと口を開く。
なぜ呼び止められたのかはわからないが、今は一刻も早く鱗人たちの集落にいる仲間たちの元に向かうのが先決だ。
ここで立ち止まっている場合ではない。
「——早く鱗人たちのところに行かないと……」
「うるせえなあ!! さっきからなんなんだよっ!!」
「え……」
蛙人の上げる突然の大声に、思わず口を閉ざす。
自身に向けられた言葉と捉えて身をすくませたが、蛙人の視線はまったく別の方向に注がれていた。
息を止めて見詰める中、男は自らの傍らを見上げつつ、虚空に向かって何やら話し掛けている。
「あん!? ——ああ、んだよ……そういうことならもっと早く言えってんだよ」
納得したように呟くと、蛙人は鋭い眼光をもってエデンたち二人をにらみ付けた。
「お前らだったのかよ、最近あっちそっちでご機嫌うかがいしてんのは。……やめてくんねえかなあ、そういうの。せっかく俺様好みの状況になってきてんのによ、余計な茶々入れてもらっちゃ困るってわけ」
いかにもいまいましげに吐き捨てるや、蛙人は身を翻して沼の中に飛び込んでしまう。
「ど、どういうこと……? 彼はどこへ——」
「エデン!! だめ!!」
木道から身を乗り出して水中を見下ろそうとするエデンに対し、注意を喚起するようにマグメルが言う。
「え……?」
振り返って見たのは、木道の下を泳いで通り抜けたのだろう、水面から飛び出してくる蛙人の姿だった。
ぺたりと木道の上に着地すると同時に、出し抜けに突き出されたのはいつの間にかその手に握られていた小ぶりな片刃の短刀だった。
「う、うわあ!?」
慌てて腰の剣に手を伸ばそうとするが、蛙人は短刀を握ったままあざ笑う。
「遅えよ」
突き出される刃を前にして剣を抜くかかわすかを思いあぐねる一瞬の間に、横から伸びたマグメルの短剣が蛙人の短刀を受け止める。
突き出された短刀の刃をはじき上げると、彼女は抜き放ったもう一方の短剣を蛙人目掛けて突き出した。
後方にもんどりを打ってこれをかわした蛙人は、不敵な笑みを浮かべて「けっ」と鼻で笑った。
「エデン、あいつちょっとやばい」
狭い足場の上で、マグメルが一歩前へと進み出る。
「ここはあたしに任せて」
掌の中の短剣をくるりと返しつつ蛙人を見据えると、彼女は二振り一対のそれを身体に引き付けるようにして構えてみせた。
「おーおー、やる気になっちまってよ」
肩をすくめて言うと、いやらしい笑みを浮かべた蛙人はもてあそぶように短刀を左右の手で持ち替える。
指先でつまむように握った短刀の刃を長く伸びる舌先でねっとりとねぶってみせるたのち、四本の指を立てて挑発するかのように手招きをした。
「どっからでも」
「ざーんねん。あたしはね、そんな見え見えの手に乗んないの!」
余裕の笑みを浮かべ、マグメルは蛙人に対して背中を見せる。
短剣を握った両手を頭上に掲げて伸びをした直後、彼女は突として身を翻すようにして振り返った。
狭く不安定な足場の上を姿勢低く疾駆し、勢いのまま蛙人に向かって迷いなく短剣を突き出す。
左右の手から続けざまに短剣を繰り出し、息継ぐ間もなく無二無三に攻め立てる。
だが蛙人のほうも素早い身のこなしをもってこれをたくみにかわし、時にその短刀をこれ見よがしに振るってみせる。
小柄なマグメルに増して小さな体躯の持ち主である蛙人との戦いは、彼女にとってもなかなか思うようにいかないものなのだろう。
マグメルがわずかに気が急くような動きをみせるたび、蛙人は嘲笑うような表情を浮かべて翻弄する。
それでもマグメルのほうが優勢であり、蛙人は余裕を見せつつも押され気味であるように見えていた。
しかし徹底して守勢に回る蛙人は、終始その顔に薄気味の悪い笑みを張り付けている。
後方から戦いを見守るエデンがその理由に気付いたのは、マグメルが足元を狙って突き出された短刀の一撃を、若干大げさに見えるほどの足さばきでかわす瞬間を目にしたときだった。
距離を取って安堵に小さく息をつく彼女を変わらずの意味ありげな笑みで見やると、蛙人は再び手にした短刀の刃をねぶってみせる。
刃から滴り落ちる粘度のある液体を目にし、脳裏に毒という言葉が浮かぶ。
細身の鱗人——它人と呼ばれていた鱗人と同じく、目の前の小柄な蛙人もその身に毒を宿すのであれば、それをまとわせた短刀は小ぶりながらも十分な殺傷力を持った凶器に他ならない。
浮かべる不敵な笑みは、マグメルがその事実に気付いていることを、満足に立ち回ることができないことを理解した上での嘲笑なのだろう。
顔の横幅ほどもある大きな口の端をにやりとゆがませたと思うと、蛙人は発条のように折っていた脚で足場を押すようにして跳ね上がり、驚くべき跳躍力をもってマグメルに襲い掛かった。
「わわっ!?」
マグメルは瞬時の判断で二振りの短剣を交差し、突き出された短刀を受け止めた。
防がれたと見て取るや、蛙人は彼女の守りを蹴って後方へ身を翻す。
体重の軽い分その刃に乗る力も弱いが、先に一撃さえ与えればいいことを知っているのだろう。
牽制と奇襲を適宜織り交ぜた戦い方をする蛙人に、マグメルは徐々に押され始めていた。
その刃の一撃を絶対にもらってはならないという緊張感が彼女に大きな負担を強いているであろうことは、後方のエデンからでもよく見て取れた。
次第に息の上がっていくマグメルとは裏腹に、蛙人は攻め手を強め、小柄な体格を生かして執拗に足元を狙う。
疲労の蓄積によりマグメルが肩で息をし始めれば、蛙人はあざけるような冷笑を浮かべて攻め立てる。
「んー!! もー!!」
しびれを切らしたマグメルが手にした短剣を大ぶりに振るうと、蛙人は後方に飛びのいてそれをかわす。
距離を取った彼は喉を膨らませて「くくく」と笑い、マグメルに向かって顔を突き出しながら挑発するように言った。
「おいおい、ずいぶんとお疲れじゃねえか。さっきまでの元気はどこへお出掛けで?」
「うるさい!! そっちがのらりくらりするからでしょ!? ——それにべつにつかれてないし、元気だし!!」
むきになって言い返すマグメルだが、振るう短剣が徐々に精彩を欠いていくのが見て取れる。
「さてとだ——」
蛙人はにやりと口の端をゆがめて彼女を見やり、仕切り直すように言う。
「——俺様もちょいと疲れちまったぜ。少し休ませてもらうとするかな」
言って蛙人は木道から沼の中央辺りを見下ろし、嬉々とした表情で口を開いた。




