第四百十八話 朏 魄 (ひはく) Ⅰ
戦場となった大樹の根元を離れ、沼の鱗人たちの集落を目指す。
思えば今日は一日中この大森林を駆け回っている気がする。
薬草を求めて森の北端へ、取って返して樹上集落に、そして今は森の北西を目指している。
おおよその方角に向かって駆けてはいるものの、鱗人たちの暮らす集落の位置を正確に把握しているわけではなかった。
昨晩シオンとカナンの二人と落ち合った岩場にたどり着いたのちは、昨晩二人の消えた方角に向かって進路を取った。
すでに時刻は夕刻を回っており、日も確実に沈みかけている。
見知らぬ土地での夜歩きという状況を避けるため、今は無理を押してでも先を急ぎたかった。
無心で走りながらもマグメルを気遣って何度か休憩を提案したが、彼女はそのたびに小さく首を振ってこれを拒む。
「早く行こ」
そう告げる表情に宿る真剣な色からは、薄暗い森の中でも不安と葛藤とがつぶさに読み取れる。
シオンとカナンが気掛かりであるのはもちろん、今まさに身をさいなむ毒と戦っている嘴人のことを考えているのであろう。
ひた走りに走りながら、エデンもまた衛士長トラトラツィニリストリを守って身に毒を受けたテポストリのことを思い浮かべる。
目を閉じて「無事であるように」と祈り、先の再会を強く願う。
嘴人たちの信じる竜の姿を知らないが、このときばかりはその加護や佑助にすがりたい気持ちでいっぱいだった。
岩原を抜けると、再び周囲の景色は森に包まれる。
嘴人たちの暮らす樹上集落近くと異なるのは、深く暗い森の中を流れる川の存在だった。
架けられた橋を渡り、階段状に続く滝に沿って進むうち、森は開けて目の前にそれまでとはまったく異なる景色が飛び込んでくる。
眼前に広がるのは、水生の植物や藻の繁茂する一面の沼沢地だった。
沼の周囲を一周するように、そしてその中央を貫く形で設けられているのは木材を組んで作られた歩道だ。
ぬかるんだ地面を歩きやすくするために設けられたであろう人工の構造物の存在は、すでにこの場所が沼の鱗人たちの領地であることを物語っていた。
「行こう」
マグメルに声を掛け、沼の中央を走る木道に足を踏み出す。
人一人分程度の幅しかない木道では、誰かが向かい側から来ようものなら擦れ違うことも難しいだろう。
支柱部分の傷んでがたつく箇所もあったが、それでも沼の中を泳いで進むよりは間違いなく効率的だ。
だが歩きやすいということは、見つかりやすいということでもある。
視界の開けた沼の中央を進む以上は、いつ鱗人たちに見つかってもおかしくないということを覚悟しなければならない。
先頭に立って沼の中ほどまで木道を進んだところで、後方を歩くマグメルが手首をしかと握ったことに気付く。
「も、もしかして——」
静かに身を屈める彼女に倣って自身も腰を落として尋ねると、マグメルは人さし指を唇に当てて沈黙を促した。
わずかな水音のみが聞こえる中で注意深く周囲の状況をうかがう中で聞き留めたのは、あざ笑うような響きを持った声だった。
「なあ、おい。どこ行こうってんだ」
声の聞こえた方向を振り向けば、目に留まったのは水面から浮かび上がる小さな頭だった。
再び頭部を水中に沈めて木道近くまで泳ぎ来ると、小柄な体格を有したその人物は木板の縁に手を掛けて身を乗り上げた。
身体を細かく震わせて水と泥とを振るい落としながら二人を一瞥し、見透かしたような口ぶりで言う。
「あれだろ、お前らもご同類だろ。だったらよ、あんまりせこせこすんじゃねえよ」
「同類……? ど、どういうこと……?」
意を理解しかねるエデンの問いに、小柄な人物はにわかに表情を曇らせる。
「あん? なんだよ、違うのかよ。勘違いしちまったぜ」
言ってにらみ上げる人物は、今までに出会ったどの種とも異なる特徴を有していた。
吻先に向かうに従って尖った三角形の頭部は扁平で、目はその上側部から突き出している。
身体は被毛にも羽毛にも鱗甲にも覆われておらず、表皮はすべらかな質感をたたえた皮膚がむき出しになっている。
頭部と胴部は赤色、そこから伸びる手足は青色と、対比の目立つ体色を併せ持った表皮は、沈む夕日の光を反射してぬらぬらと鈍い照りを放っていた。
「き、君は鱗人……?」
尋ねるエデンの言葉を受け、小柄な男の縦長の瞳孔がぎろりと動く。
「……はあ? お前今なんつった? おう、なんつったよ!?」
問いが癇に障ったのだろうか、男は顔をゆがませて詰め寄ってくる。
「何言ってくれてんの? もっぺん言ってみろや、おい!!」
「あ……その、ごめ——」
剣幕に押されて後ずさるエデンに対し、男はますます勢いよくまくし立てる。
「これさ、わかんだろ? 全然違うってよ!? ああ!?」
先端の丸くなった手指で自らの身体を示すと、小柄な男は口の端をつり上げて眇めるような目でエデンを見上げた。
「あれか、もしかして知らねえのか? 『蛙人』知らねえとかどこの田舎もんだ!? なあ、おい!!」
何がおかしいのか喉を震わせて呵々と笑う小柄な男を改めて目にし、いつか夜ごとの勉強会でシオンの授けてくれた知識を思い出す。
この地には四大種と呼ばれる種が暮らしている。
身を被毛で包んだ獣人、嘴と翼を有する嘴人、鱗甲に覆われた鱗人、そして自身がいまだ一度も出会ったことのない未知の種。
「じゃあ君は——『潤人』……?」
「んだよ、知ってんじゃねえかよ」
言って顔の前で手を打ち合わせた男は、黒光りする目を三日月のように細め、エデンとマグメルとをねめ付けるような視線で見巡らせた。




