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百从(ひゃくじゅう)のエデン  作者: 葦田野 佑
第一章  彪 人(とらびと) 篇   第二節 「繋がれた少女」
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第四十一話  甘 露 (かんろ)

 直後、少年はばたんと扉の鳴る音を背中に聞く。

 振り返って目に留めたのは、見慣れた黄と黒の縞模様だった。


「あー!! ぬれちまったよ! なあ、なんか拭くもんねえか?」


 全身から水を滴らせたアシュヴァルは乱暴な足音を立てて店内へと踏み入り、店の中であることなど気に掛ける様子もなく、身体を振るって水を吹き飛ばす。


「……ちょ、ちょっと! 貴方ね!! 勘弁してくださいよ!」


「あー、悪い悪い」


 声を荒らげる店主に口先だけの謝罪をしたのち、アシュヴァルは掌をもって少年の背を張った。


「——こんなこったろうと思ったぜ」


 ため息交じりに言ってぼうぜんと見上げる少年を見下ろし、アシュヴァルは商人の元に歩み寄る。

 そして手にした麻袋を荒っぽい手つきで逆さにすると、中身を机の上にばらまいた。


「追加で三十枚ある。これで売れ」


 突然の行動に虚を突かれたのか、商人は厚い瞼に覆われた目を大きく見張る。

 少年もまた予想外の行動に瞠目し、その名を呼んで恐る恐る顔を見上げた。


「ア、アシュヴァル……?」


「いいってことよ。あいつらにばっかりいい格好させるのは癪だからな」


 アシュヴァルは手の甲で少年の胸を軽く打ち、にっと鋭い牙をむき出しにして笑ってみせる。

 しかしすぐに表情を険しいものに切り替え、机の上に散らばった金貨をつまみ上げている商人に向き直った。


「で、どうなんだよ。売るのか売らねえのか、はっきりしろよ」


「売ってもらおうって態度じゃありませんねえ……」


 横柄な態度に出るアシュヴァルをちらりと見上げ、商人は不満げにため息をついてみせる。


「貴方もその娘が欲しいのですか。ここまで需要の高い品とは思いもしませんでしたよ。金貨三十枚が六十枚——確かに悪い話じゃありません」


「そ、それならローカを——!!」


 焦るあまり前のめりになって叫び交じりに言う少年に、商人は至って素っ気ない口調で応じる。


「——はい? ……ローカ? ああ、そんな名前だったんですね……どうでもいいですが。それでそのなんとかさんですけどね、貴方たちにはお売りできないんですよ」


「ど、どうして!?」

「なんでだよ、ああ!?」


「そっちの貴方には先ほど説明して差し上げたじゃないですか。時間だってただじゃないんです。何度も同じことを言わせないでください」


 拒絶の言葉に同時に抗議の声を上げる少年とアシュヴァルだったが、商人は一切動じることなく、煩わしそうに言って二人を上目に見据える。


「いいですか。もう一度だけ言いますがね、買い手に心当たりができたんですよ。つまり安値と知って、貴方たちに売る必要などないということです。そのお方でしたら六十枚などとしみったれたことは言わずに、こちらの言い値で買い取ってくださるはずですから。何しろ——不老長寿の秘薬と聞けば、喉から手が出るほど欲しい品でしょうからねえ」


「不老——長寿……? なんの話を——」


 商人の語る話は、完全に理解の範疇を超えていた。

 今はローカの話をしているのであって、薬の話をしているわけではない。

 なぜ急にそんな話題を口にするのかまったく見当が付かないが、それでもどこか捉えどころのない不安と底の知れない恐怖が、身体の中を走り抜けていく感覚を覚えずにはいられない。


「おい……! 何を訳のわからねえこと言ってやがる! 話をすっ飛ばしてんじゃねえよ——!!」


 アシュヴァルも同じく商人の意図を測りかねているのだろう、表情には明らかないら立ちの色が見て取れた。


「別にすっ飛ばしてなどいませんよ。おや、彪人の貴方も()()()がお目当てなのかと思っていましたが、どうやら本当にご存じないようだ」


 商人はアシュヴァルの顔を見上げ、唇をゆがめて言う。

 次いでローカの全身になめるような視線をはわせたのち、耳を疑う言葉を口にした。


「ここにいる娘こそが不老不死、延年益寿の秘薬だと申し上げているんですよ、私は」


「……!!」

「はあっ!? な、なんだよそりゃ!!」


 驚きのあまり言葉を失う少年と、あぜんとして口を開け放つアシュヴァルをよそに、商人は一人まくし立てるように言葉を続ける。


「仕入れた当初はですよ、それこそ珍しもの好きの好事家あたりにでも売り付けようなんて考えていたんです。都から離れれば呪いの件を知らない方もいるでしょうし。それがまさかですよ、旅をしていれば幸運なこともあるものです。さる筋から耳寄りな情報を手に入れましてね。人に不老不死を与えると伝えられる不思議な生き物の話。古い書物の写しをね、見せてもらったら確かによく似ているんですよ、その娘に。こう——白くてね、凹凸のない身体なんかが。奇貨きかくべしとはまさにこのことです。とんだ拾い物をしたものだと小躍りしましたよ。世界中の人々が願ってやまない奇跡がここにあるんだってね。——その肉を食した者は不老不死となり、あらゆるけがや病も立ちどころに治してしまう。血を浴び、すすった者には若返りの力と永遠の美が与えられ、はたまた生きたまま臓腑を食らえば——」


 狂気じみた表情を浮かべた商人が、熱弁を振るっていたそのときだった。

 商品の並んだ棚がすさまじい物音を立てて崩れ落ちる。

 空気が凍り付いたように静まり返った店内には、屋根を打つ雨音だけが響いている。

 言葉を中途でのみ込んだ商人は、崩れ落ちた棚と辺りに散乱した商品を、口を開けたまま物憂そうに眺めていた。


「……もう十分だ。それ以上喋ってみろ」


 激しい憤りといら立ちに、アシュヴァルは声を震わせる。

 商品の並んだ棚を殴り壊してなお怒りが収まらないのだろう。

 深い呼吸を繰り返して感情を押さえ込もうとする彼の横顔を見上げたのち、次いで少年は店の片隅で立ち尽くすローカに視線を投げる。

 商人の語る話を聞き、彼女は何を思うのだろう。

 恐る恐るうかがい見るが、その顔に張り付いているのは依然として生気のない冷めた表情だった。


「つ、作り話だ……」


 不意に、そんな言葉が口を突いて出る。


「そんなことあっていいわけない!! 人が人を——それでもおかしいのに!! その上……!!」


 湧き上がる怒りの感情の赴くまま声を上げたが、商人は少年の放つ怒りを軽く受け流すかのように唇をめくり上げて笑った。


「ええ、でしょうね。そうですとも!」


「じゃ、じゃあ、どうして——」

 

 予想外の言葉にあぜんとして息をのみ、声にならない声を絞り出す。


「作り話で大いに結構! 私もはなから信じちゃいませんよ、そんな怪しげな話。都合のいいことばかり信じていたら、商売なんてやってられません。でもね、大事なのはそれを聞いて人がどう思うかなんですよ。言いましたよね、商売の鉄則。欲しい方に必要なものを売るって。飢えた方に食物を、渇いた方に水を、適正な価格でお売りするのが私たち商人の仕事なんです。それと同じでしてね。たとえ作り話だったとしても、それが長生きしたい方、重い病を患っている方、永遠の若さを保ちたいと願う方——そんな人の分を弁えない方々の目にどう映るか、どう聞こえるかが重要なんです。にわかには信じられないような与太話でもね、人はそこに一筋の光明を見いだしたくなる生き物なんですよ。わずかな希望にすがりたくなるものなんですよ。……ほら、この娘。言われてみれば薬効があるように見えてきません? お試しになりたいのなら腕一本くらいならお譲りしましょうか? ——お安くしますよ」


 あざ笑うかのように言い、商人は再びローカの首につながる縄を引く。

 先ほどよりも強く引かれ、彼女はつんのめるようにして倒れ込んだ。


「そ、それをやめろって言ってるんだっ!!」


 怒りに任せて叫び、少年は膝を突いたローカの元に駆け寄る。

 せき込む彼女の背をさすりつつ、上目で商人をにらみ上げた。


「……黙れって言ったよな」


 アシュヴァルはやおら手を伸ばしたかと思うと、胸ぐらをつかんで商人の身体を机の上へと引っ張り上げる。


「——じょ、冗談ですよ。せっかくの売り物を傷物にしてたまるものですか。それにしても喋るなと言ったり喋れと言ったり忙しい方たちだ……!」


 喉を詰まらせながら言う商人だが、怒りをあらわにするアシュヴァルを前にしても一切怯むそぶりを見せない。

 舌打ちをする彼に向かって大げさなしぐさで肩をすくめると、つかみ上げられたまま平然と言い放った。


「……いいでしょう。金貨で百枚、それでお譲りします」


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