第四百十四話 加 担 (かたん) Ⅰ
喚起の声を受けて振り向いた枝上のトラトラツィニリストリは、テポストリの差し出した槍を素早く受け取り、筒を口にした鱗人を狙って投げ放つ。
だが鱗人は一本の縄のように伸びる身体をくねらせて放たれた槍を難なくかわすと、投擲後の無防備をさらすトラトラツィニリストリに対し、再び口腔にあてがった筒の先端を向けた。
エデンが樹上に見たそこから先の一連の流れは、まさにまたたく間の出来事だった。
翼を突き出すようにしてトラトラツィニリストリの前に飛び出したテポストリが、不意に枝上で身体をよろめかせる。
そしてたたらを踏むように枝を踏み外したかと思えば、そのまま樹上から転落していた。
「テポっ!!」
羽ばたくことなく地上に向かって落下する姿を目にした瞬間、エデンは落下地点を目掛けて走っていた。
落ちてくるテポストリを辛うじて受け止め、その身体もろとも大地に倒れ込む。
追って駆け寄ってきたマグメルと共に、苦悶の表情を浮かべる嘴人の名を呼んだ。
「テポ!!」「テポちゃん!!」
身を揺すろうと伸ばした手をとっさに押しとどめたのはマグメルで、彼女は腰袋の中から手早く何かを取り出した。
愛用の水筒で翼を手早く洗い流したかと思うと、マグメルは唇をその翼の先にあてがう。
吸い出しては吐き出しを二、三度繰り返したのち、彼女はテポストリの身体をもたせ掛けるように大樹の根に預けた。
「毒だよ」
「ど、毒——」
マグメルの口にした言葉を繰り返しつつ、固く目を閉ざして小さなうめき声を漏らすテポストリを見詰める。
「——あ、あのとき……」
脳裏をよぎったのは、つい先ほどの樹上での出来事だ。
細身の鱗人が筒のような道具を用いて毒を吹き付けたのなら、そしてテポストリがトラトラツィニリストリを守るために身を差し出したのならば、この状況にも納得がいく。
「このままじゃテポちゃん死んじゃうかも」
「え——」
自らも水筒の水で口内をゆすいだのち、マグメルは苦悶にゆがむ顔を見下ろして言う。
あくまで淡々とした口ぶりで放たれるひと言に、エデンは思い切り頬を殴られたような衝撃を禁じ得ない。
助けを求めるように周囲を眺めるも、そんな余裕のある者など戦場と化したこの場所には一人もいなかった。
枝上では衛士長トラトラツィニリストリと細身の鱗人が矛を交え、赤と青のトレトルとセクトリや、彼ら以外の衛士たちも鱗人たちの出方をうかがっている。
徐々に呼吸を荒らげていくテポストリに心痛を抱くが、その身を気遣うばかりではいられないことに遅れて思い至る。
戦場の直中に飛び込んだ自身とマグメルを見据える鱗人たちの視線に気付いて周囲を見回せば、その顔に張り付いているのは怒りと疑念とが入り交じった複雑な表情だった。
「貴様ら……」
言って強靭な顎を噛み締めたのは、鱗人の兵士長カプニアスだ。
憤怒の形相をその顔に宿して一歩ずつ歩み寄る彼女を目にし、激しい戦慄を覚える。
迫る彼女に意識を向けつつも再び傍らを見やれば、そこには苦しげな吐息を漏らすテポストリの姿がある。
誰の助けも得られないまま徐々に衰弱していくテポストリと、激しい怒りをたたえて迫り来る兵士長カプニアスを前に、エデンは自らの取るべき行動を考える。
ここで場所を譲れば、おそらくテポストリの命はない。
かといってその身体を抱えて鱗人たちから逃げることも難しいだろう。
それにたとえここから逃げたとしても、毒に侵されたその身を救う手立ても思い付かない。
「じ、自分たちは……!!」
「うるさい、黙れ!! それ以上口を開くな!!」
立ち上がってなんとか思いを伝えようとするが、カプニアスは有無を言わさぬ口調で言い放つ。
一切聞く耳を持つことなく歩み寄る彼女の手に握られた三叉戟に力がこもるところを見て取り、戦場において言葉が無力であることを悟る。
残された最後の手立ては、腰に差した剣しかないのだろうか。
覚悟を決める暇もなく恐る恐る柄に手を伸ばそうとした瞬間、静かに口を開いたのは傍らのマグメルだった。
「どっちかに手をかすってことは、どっちかのてきになることだよ、エデン」
彼女の言っていることはもちろんわかっているつもりだ。
加えて先ほどカプニアスや鱗人の兵士たちの見せた表情から、彼女らの考えていることもおおよそ見当が付いていた。
あの夜、沼の鱗人たちから想像以上の歓待を受けているとシオンは語った。
カナンの武勇がその胸襟を開かせ、良好な関係を築けているであろうことは口ぶりからもわかった。
だがもしも彼女らと似た姿形を有する自身とマグメルが嘴人たちにくみしていると知ったなら、鱗人たちはどう思うだろう。
何かしらの意図を持って懐に入り込んだと——そう鱗人たちに勘繰られたとしてもなんら不思議はない。
今ならまだ申し開きができるかもしれないが、ここで剣を抜くことは彼女らの抱く疑念を決定的なものにするということだ。
シオンとカナンのあずかり知らぬ場で、彼女らを鱗人たちの敵にしてしまう行いだ。
「二人とも——ごめん……!!」
深い心とがめを覚えつつ腰に差した剣に手を伸ばす。
「でも……ここは通せない!!」
自分自身に言い聞かせるように呟き、柄を握る。
兵士長カプニアスの表情がますます強い怒りに彩られるところがわかり、エデンは恐怖に大きく身体を震わせた。




