第四百十三話 震 霆 (しんてい)
何もできない無力さを噛み締めつつ自らも再び戦場に視線を向けたエデンは、突として頭上から放たれた声を聞く。
「トレトル!! セクトリ!! ——散れ!!!!」
それは辺りを包んでいた喧騒をひと息で吹き飛ばすほどの雷声だった。
トレトルが倒れ伏すセクトリの身体を抱きかかえて転がるようにその場を離れ、対する鱗人の兵士長が頭上を見上げた次の瞬間、辺りに落雷を思わせる轟音が響き渡っていた。
地響きのような振動が足元を伝うと同時に、周囲一面を覆う形で巻き上がった土煙によって視界をふさがれる。
とっさの判断でマグメルに覆いかぶさり、飛び散る土や朽ち木の破片などを背で受けるが、しばらくは何が起きたのかをまったく把握できずにいた。
土煙が静まるのを待ち、改めて音の出どころを眺め見たエデンの目に映ったのは、すり鉢状にくぼんだ大地と、その中央に突き立つ一本の槍の柄だった。
矛を交えていた嘴人たちも鱗人たちも、いまだ降り注ぐ土や砂を浴びながら頭上を見上げている。
皆の視線の先を追い、大樹の枝上に衛士長トラトラツィニリストリの姿を捉える。
彼が背後に向かって翼を伸ばすと、後方に控えていた一人の嘴人が抱えた槍束の中から一本の投槍を差し出す。
受け取った槍を頭上高く振りかぶる様を目にし、嘴人たちは一斉に大樹の根元近くに退避していた。
「お前たちも下がれ!!」
頭上を見上げつつ叫んだのは鱗人の兵士長だ。
続けて頭上のトラトラツィニリストリににらみ付けるような視線をたたき付けた彼女は、長く伸びた顎を開け放って声を上げた。
「『雷公』トラトラツィニリストリか!! 相手にとって不足なし!!」
「兵士長カプニアス!! この身ある限りそれ以上一歩も先へは進ません! 今日のところは負けを認めて潔く引くがいい!」
トラトラツィニリストリも枝上から眼下を見下ろしながら答えると、翼に握った得物を勢いよく投げ放った。
雷鳴のような音を轟かせて飛来する投槍を、兵士長——カプニアスと呼ばれた鱗人は三叉戟の一閃をもってはじき飛ばす。
頭上を通過して後方の樹の幹に突き立った槍の破片を認め、エデンは我と我が目を疑う。
マグメルがとっさに頭を押し込んでくれなければ直撃を受けていたかもしれない。
ぼうぜんと口を開け放ったまま再び頭上を見上げたエデンは、受け渡された三本目の槍を投げ放つトラトラツィニリストリの姿を目に留める。
続いて放たれた槍の標的は兵士長カプニアスではなく、彼女とは別の鱗人の兵士だった。
大盾を構えて防御の体勢を取る兵士に対し、カプニアスの怒号にも似た声が飛ぶ。
「受けるな! 避けよ!!」
その言葉を受けた兵士が行動を起こすよりも早く、頭上から飛来した槍は盾ごと彼女の脚部を撃ち貫いていた。
大盾も身を包む堅固な鱗も、はるか頭上から放たれた衛士長の槍を防ぎ切ることはできない。
うめき声をあげてうずくまる兵士の足から、大地に身を縫い付けるように突き立った槍を引き抜くと、憤怒に満ちた表情を浮かべた兵士長カプニアスは血ぬれの槍を頭上目掛けて投げ返す。
槍はトラトラツィニリストリに届くことなく落下したが、その抱く怒りの程は枝上のトラトラツィニリストリにも十分過ぎるほど伝わっているように見えた。
投槍のすさまじい威力を前に、徐々にだが規律立っていた鱗人の兵士たちの統制が乱れ始める。
衛士長トラトラツィニリストリはその隙を見逃すことなく、後方に控える嘴人たちから手渡される槍を好機を得たとばかりに下方に向かって投じる。
「引け!! さもなくば竜の雷霆が貴公らの身を撃ち抜くぞ!!」
「貴様が竜の名を騙るな!!」
次々と大地に降り注ぐ槍に押されて後退していく鱗人たちの中でただ一人、手にした戟と尾をもってこれをはじき落し続けるのが兵士長カプニアスだ。
「竜の守護は我が身にこそあり!! 貴様の取るに足らぬ雷など、全てこの私が払い落としてくれるわ!!」
「よかろう!! 竜の鉤爪、その身に刻むがよい!!」
息を荒くして言い立てるカプニアスに対し、枝上のトラトラツィニリストリは後方に翼を伸ばす。
入れ代わり立ち代わり彼のもとに投槍を届ける嘴人たちだったが、見上げるエデンはそこに見知った姿を見て取っていた。
「え……!? ど、どうして——」
同時にマグメルもその存在に気付いて驚愕の声を上げる。
「テポちゃん!?」
自らを衛士ではないと語ったテポストリが戦場に身を置いていることに驚くと同時に、エデンは樹上に不穏な影を捉える。
テポストリが慣れない手際で槍を指し出そうとした瞬間、樹上に姿を現したのは、翼持つ嘴人ではない一人の人物だった。
胴部から区切りなく続く細く長い尾を大樹の枝に絡み付けるようにしてぶら下がっているのは、なめらかな鱗に身を包んだ細身の鱗人だ。
先端の二股に分かれた舌を口内へ収めると、彼女は手にした筒状のものを口腔にあてがう。
トラトラツィニリストリもテポストリも、二人以外の嘴人たちも、誰も樹上に忍び寄る鱗人の存在に気付いていない。
その事実を見て取ったときには、エデンははじかれたように樹の陰から飛び出していた。
「危ない!! テポ!! トラトラ——」
マグメルの手をすり抜けて皆の前に姿を現すと、頭上を見上げてもう一度声を上げる。
「——そ、そこ!! 後ろっ!!」
鱗人が何をしようとしているのかまではわからないが、何か悪い予感がしてならない。
ここで見過ごしてはならないと告げる衝動のままに、伸ばした手で何者かの所在を指し示しながら声を上げていた。




