第四百十二話 釁 端 (きんたん)
息つく間もなく走り続け、テポストリに縄梯子を掛けてもらった兌樹にたどり着く。
だがそこから樹上に登ることはせず、二人は北西の方角にある艮樹を目指して走り続ける道を選んだ。
先ほど脳裏に浮かんだ光景が今現在のものであるのなら、鱗人たちが攻め入るのはその暮らす集落から最も近い場所に位置する艮樹だろう。
もちろん裏をかいて別方向から攻めるという手も考えられなくもないが、空を舞う嘴人たちを相手に奇襲で優位性を保つことは難しいに違いない。
加えてカナンから伝え聞いた鱗人たちの強さを重んじる性格を鑑みれば、からめ手から攻めてくることは考えにくい。
小細工なしに真正面から正攻法で攻めてくるだろうという、そんな確信にも似た予感があった。
乾樹を左手に、樹間に架かるつり橋を頭上に見ながら森の中をひた走る。
目指す場所が近づくにつれて頭上を飛び交う嘴人たちの羽音が激しくなっていくのは、両種の衝突が近いことを意味している。
あるいはすでに戦闘が始まっている可能性も否定できない。
戦いの場にたどり着いたとて何ができるのか、どんな手が打てるのかはわからなかったが、それでも走らずにはいられなかった。
抱く不安を表したかのように跳ねる剣の柄を押さえ込みながら考えるのは、それを抜かずに場を治める方法だ。
カナンと吠人たちから受けた手ほどきの成果を向ける相手が、異種ではなく同じ人になるとは思いたくなかった。
艮樹を目前にしたエデンの耳に、いつかと同じように激しさを多分に含んだ人々の声と、刃を打ち合わせる音が飛び込んでくる。
それは恐れていた事態が現実に起こっていることの何よりの証左だ。
艮樹の根元までたどり着いて見たのは、樹上集落に攻め入る沼の鱗人たちと、それを迎え撃つ東の嘴人たちの姿だった。
嘴人たちと鱗人たちの矛を交える光景は、そびえ立つ大樹の根元のあちらこちらにあった。
一見すると大樹に攻め入った鱗人の兵たちは数十人ほどだ。
嘴人たちは空中から次々と攻撃を仕掛けるが、鎧と盾とで武装した鱗人たちの守備はこれを寄せ付けなかった。
鱗人たちの中でも特に目を引くのは、その先陣に立って三叉の戟を振るう一人の人物だ。
赤色と青色の羽毛に身を包んだ二人——トラトラツィニリストリがトレトルとセクトリと呼んだ衛士に加え、数人がかりで攻める嘴人たちとただ一人で渡り合う鱗人の兵士こそ、以前に岩の戦場で集団を指揮していた人物だった。
他の鱗人のように盾は持たないが、全身を覆う硬質な鱗と鎧は嘴人たちの繰り出す生半可な攻撃をものともしない。
突き出された槍を長く伸びた強靭な顎をもって挟み込むように受けたか思うと、その強靭な尾で嘴人たちの身体をなぎ払った。
三叉の戟に加えて尾と顎も二つとない武器であり、全身を包む鱗は不用意に近づく者の身を切り裂く鋭利さを有している。
頭部をひねって顎に挟んだ槍を放り捨てた鱗人は頭上に向かって口を開け放ち、猛り立つような叫びを上げる。
奮迅の勢いを見せる鱗人を前にし、エデンはぼうぜんとその場に立ち尽くしていた。
「エデン!! なにしてんの!?」
マグメルに手を引かれ、倒れ込むように樹の陰に身を隠す。
「あぶないでしょ! 見つかったらたいへんだよ!!」
「う、うん……ごめん」
謝罪をするエデンをいつになく真剣なまなざしで見返すと、彼女は両の拳を腰の辺りで固く握り締めてみせた。
「エデンのこと、ちゃんとあたしが守るって約束したんだから!」
満足そうにうなずいたのち、マグメルは樹の幹に背中を預けるようにして今一度戦場となっている大樹の根元をうかがい見る。
「カナンの言ってた三人の中の一人だよ」
「……うん」
マグメルの肩越しに視線の先を追う。
カナンは沼の鱗人たちの長を指して小柄と評した。
ならば今目の前ですさまじい戦いぶりを見せる大柄な鱗人は、彼女の話にあった三人の兵士長の一人だと見当が付く。
剛腕から繰り出される三叉戟の一閃は嘴人たちの握った槍を軽々とはじき飛ばし、尾の一撃は周囲を巻き込むように振り払われる。
防御や回避をし損なった嘴人たちが一様に吹き飛ばされる中、素早く翼を打ってそれをかわしたのは赤と青の衛士——トレトルとセクトリだった。
着地とともにその翼に握った槍を勢いよく突き出す赤のトレトルに合わせるように、青のセクトリは翼を羽ばたかせて空中にとどまったまま趾で握った槍を連続して放つ。
息の合った連携攻撃に鱗人の兵士長はわずかに怯んだ様子を見せたものの、即座に反撃に打って出る。
左手の三叉戟でトレトルの攻めをいなしつつ、停空状態から放たれるセクトリの槍を素手でつかみ取ると、奪った槍の柄で彼の身体を打ち払った。
セクトリが青色の羽根を舞い散らせながら地上へと落下すると同時に、鱗人は奪い取った投槍を投げ放つ。
トレトルは投槍を振るってこれを受け流すが、その軌跡をなぞるようにして繰り出された三叉の戟への対応が遅れる。
とっさに引き戻した槍で突き出された戟を受け止めたトレトルだったが、ひねられた三叉戟の鉤部分に絡め取られ、翼に握った得物は宙を舞った。
丸腰のトレトルと倒れ伏したセクトリに向かって鱗人の兵士長は歩みを進める。
とどめを刺さんと手にした三叉戟を振りかぶる彼女と、気を失っているセクトリを背にかばうように膝を突くトレトルを目にした瞬間、エデンは考えるよりも先に樹の陰から飛び出していた。
「っ——!!」
だがその直後、先ほどよりも強い力で後方に引き込まれる。
尻もちをつくように座り込んで見上げた先にあったのは、無言で自身を見下ろすマグメルの顔だった。
「だめ。エデンが行ったってどうにもならないよ」
告げる彼女の表情には、普段の無邪気で明朗な少女からは想像も付かない冷淡な色が刻まれている。
「たぶんね、あたしも勝てない」
断言するかのように言うと、マグメルは二人の嘴人の元に歩を進める鱗人に視線を戻した。
嘴人たちと鱗人たちの戦いは、変わらず周囲のあちらこちらで繰り広げられている。
おそらくここでない場所でも、同じように命を賭した戦いが行われているのだろう。
両種の叫び声と刃を打ち合わせる音が響く中、鱗人の兵士長は二人の嘴人を見下ろす位置まで迫る。
「や、やっぱり——このままじゃ……!!」
今まさに命が奪われようとするところを見ていられるわけなどなかった。
身を起こして再び駆け出そうとするエデンだったが、差し伸ばされたマグメルの手が手首を固く握り締めて離さない。
小柄な身体のどこにこんな力が隠されていたのかと驚愕を覚えつつ戦場を振り返って見れば、上空から舞い降りた二人の衛士が鱗人に立ち向かっているところが目に入る。
トレトルとセクトリを守ろうと槍を手に突進を仕掛けた二人の嘴人たちだったが、振るわれた強靭な尾によっていともたやすく吹き飛ばされてしまう。
手首を握って離さないマグメルに今一度向き直り、エデンは自身の思いを伝えようとする。
「彼らを助けたい」
口を開きかける寸前、先んじるように言葉を発したのはマグメルのほうだった。
「これはあたしたちのたたかいじゃないよ、エデン」
「自分——たちの……」
「そうだよ、これはあの子たちの——」
戦場を見据えるマグメルが顔に映すのは、短剣を手にする際に時折見せる、エデンの知らない彼女の表情だ。
切り捨てるような物言いに続く言葉が出せずにいたが、マグメルの声がわずかに震えを帯びているのを聞き逃さない。
「——あたしたちには……あたしたちの……」
歯噛みしつつ、己に言い聞かせるようにして呟いている。
まばたきもせずに黙って戦場をにらみ付けるまなざしと手首を握る力の強さとが、彼女の抱く無念さを何より雄弁に語っていた。




