第四百十一話 瞬 視 (しゅんし)
隠遁する黒羽の嘴人、落羽の暮らす小屋を後にし、エデンとマグメルは樹上集落に向かって森の中を歩んでいた。
地図もなく土地勘もない森の中で迷いなく進めるのは、時折林冠の隙間から威容を現す大樹のおかげだ。
頭上を見上げれば夕暮れが迫っているのがわかる。
籠の中の薬草をけがをした衛士たちに早く届けたい、そんな気持ちが歩みを速足にする。
集落に戻ったのちは薬草を届け、もう一度竜について調べてみようと心に決める。
何かしらの成果を持ってシオンとカナンと合流し、その後はもう一度自らの——自分たちの身の処し方を決断しなければならない。
鱗人たちの元に向かったカナンは「集落全体に徹底的な交戦を望む気運が高まっている」と語り、落羽は昨今の様相を「何かと物騒だ」と語った。
現に東の嘴人のたちの間でも、薬草が足りないという形で問題が顕在化している。
やはりシオンとカナンの言うように、これ以上この地にとどまることは難しいのかもしれない。
姿を消した少女を連れ戻すという、この旅の第一の目的を果たすためには、自らの身は自らで守る必要がある。
加えて、それぞれ思いを抱いて自身に同行してくれた三人の身をいたずらに危険にさらすことは絶対に避けなければならない。
一生を旅になぞらえ、旅をする者たちの文字通り羽翼となることを善しとする東の嘴人たちは、この抜き差しならない状況中でも旅人である自分たちを受け入れてくれた。
満足にその大切にするものを知ることなく、二日、三日で彼らの元を去らなければならないことにこの上ない心苦しさを覚えるが、それ以上にここで旅を終えるようなことがあってはならないと思う気持ちのほうが強い。
共に歩んでくれている少女たちはもちろん、背中を押して送り出してくれた大切な人たちや、旅路の途中で出会った者たち、そして旅の先で待っている——待ってくれているであろう少女のためにも、ここで歩みを止めるわけにはいかないのだ。
「……ローカ」
傍らを歩くマグメルに聞こえないよう、小声でその名を呟く。
嘴人たちと鱗人たちが竜を巡って相争うこの地にたどり着いたこともその導きの一環であるなら、彼女は何を求めているのだろう。
何を目にし、何を聞き、何を感じ、そして何をすべきというのだろう。
「自分はどうしたら——」
歩みを進めながら呟き、拳を握り締める。
抱く不安を感じ取ったのか、マグメルが足を止めることなく顔をのぞき込んでくる。
「エデン、だいじょぶ?」
「あ、うん……ごめん、大丈——」
答えを口にしかけた瞬間、不意に激しい頭痛を覚える。
「——う……」
不意に立ち止まると、小さなうめき声とともに膝を突いた。
「エデン!?」
「……ご、ごめん」
自らも腰を落として身体に触れるマグメルに謝罪を返し、半ば無理やり身を起こす。
「ほんとにだいじょうぶ……?」
「うん、少し頭を使い過ぎたのかも……」
不安げなまなざしで見詰める彼女に無理やりの笑顔で応じ、前方に向かって倒れ込むような一歩を踏み出した。
「行こう」
だが踏み出したはずの足はたよりなく宙をさまよい、再びその場に崩れ落ちる。
込み上げる目まいと吐き気に耐えつつ、久しぶりに感じるその感覚に身を委ねていた。
マグメルに触れてアリマの記憶をたどったとき、シオンに触れて音の波の中に身を置いたとき、ローカに触れてはるか遠方の風景を望んだとき。
少女たちの有する異形の力——襲い来るのが、その一端を垣間見た際に覚えた眩暈感と同じものであると確信する。
うずくまりながらも、その力の出どころを探る。
「エデン! エデン!!」
マグメルが発生源でないことは、取り乱したように呼んで背中を揺する様子からも見て取れる。
遠く離れた沼の鱗人の集落に身を置くシオンでもないとしたら、何か大切なことを伝えようとしているのは、彼女——ローカ以外に考えられない。
いつかと同じように目を閉じて意識を集中させれば、視界に二つの光景が浮かび上がる。
ほんの一瞬明滅するように現れて消えた光景だったが、それはエデンを酩酊にも似た感覚から引き戻すには十分だった。
「い、行かなくちゃ……早く——!!」
強引に身を起こし、辺りに散らばった薬草を拾い集める。
「エデン……」
「すぐに戻らないと駄目なんだ!!」
心配げな表情をたたえるマグメルに、今一度断言するように言う。
戸惑いの表情を浮かべたのもつかの間、彼女は何も聞かずにうなずいてくれた。
「うん。わかった」
言うや否や、マグメルはいざなうように手を差し伸ばした。
少女に手を引かれて森の中を走りつつ、エデンは先ほど脳裏に浮かんだ景色を思い起こしていた。
一つの場面は、樹上の嘴人たちが慌ただしく飛び回る光景だった。
中には趾に投槍を把持した衛士長トラトラツィニリストリに加え、金銀、赤青の衛士たちの姿もある。
もう一つの場面は列をなした鱗人たちが森の中を進む光景であり、三叉の戟を手にした兵士たちの進む先に見えるのは嘴人たちの暮らす大樹だ。
予期していたよりもはるかに早い総力戦の訪れに、全身に走る冷たい戦慄を禁ずることはできない。
籠の中にこれでもかと詰め込んだ薬草が、見下ろす目にやけにむなしく映った。




