第四百七話 慈 護 (じご) Ⅰ
「竜、竜……」
ぼそぼそと繰り返し呟きながら、エデンは八樹を結ぶつり橋の上を歩いていた。
衛士長トラトラツィニリストリの口にしたその言葉は、東の森に暮らす嘴人たちを導く大いなる存在の名だ。
昨日は事情もあってそれ以上を尋ねることはできなかったが、まさか一日ぶりに落ち合ったシオンとカナンの口から、件の単語を聞こうなどとは思ってもみなかった。
沼の鱗人たちの信仰する神の名もまた竜であるという事実は、驚愕を覚えるには十分過ぎるほどだった。
シオンとカナンの二人と情報の交換を行ったのち、マグメルと共に樹上集落へと戻り、兌樹の樹上でテポストリと予想外の遭遇を果たす。
文字通り地に足の付かない心持ちを抱えながら客室に戻っては、東の嘴人たちにとって、竜という存在がどのような意味を持つのかについて尋ねてみることにした。
「竜ですか……?」
突然の問いに面食らっていたテポストリだったが、慎重に言葉を選びつつ答えを聞かせてくれる。
「……竜っていうのは神さまなんです。えっと、もちろん央樹も神さまみたいなものですけど、少し違うんですよ。央樹は近くにあっていつでも一緒って感じで、竜はもっとなんていうか……け、けーじじょー? 目に見えなくて、それでもずっとぼくたちを見守ってくれて——ぼくたちもそこにいるってちゃんと知ってて……」
そこまで話し、深く考え込むようにして翼を組んでしまう。
「……いざ言葉にしようとすると難しいですね。ごめんなさい、うまく説明できなくて」
申し訳なさそうに肩を落とすテポストリに礼を伝え、次いでその思い浮かべる竜の姿を尋ねてみる。
「姿ですか? そうですね——」
テポストリは目を閉じると、再び言いよどみつつも言葉を続けた。
「——おっきくて……強くて、すっごくおっきいんですよ! それでとっても立派で、翼があって——」
「とぶの?」
「もちろんですよ!!」
口を挟むマグメルに対し、嘴の触れる距離まで詰め寄るようにして応じる。
見上げる彼女の不可解そうな顔つきから、何を考えているのかが見て取るようにわかった。
シオンが手帳に描いた竜の絵、それが翼を得て空を飛んでいるところを想像する。
思い描くその摩訶不思議な光景に、エデンもまた「うーん」とうなるように声を漏らしていた。
「あ!! そうです! 竜について知りたいのなら——」
思い付いたように翼を打つと、テポストリは北東の震樹にある書庫への訪問を提案してくれた。
今夜は遅いから明日また一緒にとの申し出に対しては、案内が不要である旨を告げる。
隠し事というわけではないが、嘴人たちの竜と鱗人たちの竜を照らし合わせる作業に付き合わせることに抵抗を覚えたからだ。
勝手をしている自覚はあったが、テポストリは意思を尊重してくれ、加えて「エデンさんのこと、司書さんに伝えておきますね」と言ってくれた。
「じゃあテポちゃんはあたしとおさんぽ!」
「はい、おさんぽですね!」
抱き付くマグメルに、テポストリは照れ笑いで答えていた。
翌日、エデンは一人書庫へと向かっていた。
八樹の北東に位置する震樹、北を向いてうがたれた樹洞に書庫はある。
テポストリから事情を聞いている司書らしき嘴人に用向きを告げると、彼女はあらかじめ取り集めてあった、竜についての記述のある書物を差し出してくれた。
書物のひと文ひと文を指でなぞるようにして読み進めれば、竜は東の嘴人たちの信仰する神に等しき存在らしいことがわかる。
だがそこに記されていた内容は、その教えや信仰の在り方、儀式の執り行い方についてのものばかりだ。
竜の伝承自体や姿形について書かれたものは一冊もなく、他の書物はないかと尋ねてみても司書は首を横に振るのみだった。
成果を得られないまま書庫を後にしたのちは、震樹から央樹に向かって渡されたつり橋の上を進んでいた。
「——竜……竜かあ」
央樹を囲む回廊にたどり着いたところで、ひときわ高くそびえ立つ央樹の樹上を見上げる。
竜とは何かと長チャルチウィトルに尋ねれば、求める答えを与えてくれるだろうか。
続いて西から北、衛士たちの領分である坎樹、艮樹、坤樹に視線を巡らせる。
目を凝らして見ると、飛び交う衛士たちは確かに殺伐とした雰囲気をまとっているような気もする。
それが大きな戦が近いことの表れであると思うと、胸が締め付けられるような感覚を禁じ得ない。
「あ……」
央樹を離れてつり橋を南に進み乾樹にやってきたところで認めたのは、身を隠して樹洞をのぞき込むマグメルとテポストリの姿だった。
二人はほうけたように口を開け、樹洞の——孵卵室の中を見詰めていた。
その後方まで歩み寄ったエデンは、二人の肩の間から樹洞の中をのぞき込む。
そこには昨日と変わらず卵の世話をする数人の女たちの姿があった。
東の嘴人と沼の鱗人、両種の間の争いが大規模な戦に発展すれば、この樹上集落も無事では済まない可能性も出てくる。
もしもそうなったなら、孵化を待つ卵とそれらを世話する彼女らはどうなってしまうのだろう。
襲い来る不安に身をすくませるエデンに対し、振り返って心配そうに声を掛けたのはテポストリだった。
「エデンさん、どうかしましたか?」
「な、なんでもないよ! そ、そうだ、テポ——」
答えて無理やり笑顔を作り、感謝の言葉とともに書庫での得られた成果の程を端的に伝える。
語るエデンの表情から結果が芳しいものではないことを見て取ったのか、テポストリは「お力になれずにごめんなさい」と心底申し訳なさそうに低頭した。
再び樹洞の中に視線を移すテポストリに倣い、エデンも今一度同じ方向に視線を向ける。
三人して樹洞の内を見詰めていたが、ふと思い立ったように沈黙を破ったのはテポストリだ。
「……守らなくちゃって思うんです」
出し抜けに放たれた言葉に、思わず小さく肩を震わせる。
心を読まれでもしたのではないかとその後ろ頭を見詰めるが、どうやらそうではない様子だ。
樹洞の内部を見詰めたまま、テポストリは陶然とした表情で言葉を続ける。
「草も木も森も——それからぼくたちが拠り所にしている大樹も、大地がなければ育ちません。この世で一番奇麗な色です、彼女たちの羽の色。ぼくは衛士ではありませんが、彼女たちの優しくて温かい色の羽を見てると、絶対に守らなくちゃって——そう思うんです」
傍らのエデンを見上げ、どこか気恥ずかしそうな口ぶりで問う。
「……ぼく、おかしいですかね?」
「ううん、何もおかしくないよ」
テポストリは即答するエデンに「へへへ」と笑顔で応えると、今一度卵の世話をする女たちを目を細めて見詰めた。
「そうだといいなあ」




