第四百六話 洞 観 (どうかん)
森の中を大樹に向かって走りながら、傍らを並走するマグメルに問う。
「本当にこれでよかったのかな……」
「よく、するんだよ」
彼女は足を止めることなく見上げ、小さく微笑んで答えた。
兌樹の根元まで帰り着くと、マグメルは結びをほどいた鉤付き縄を頭上目掛けて投げ放つ。
一度は狙いを外したが、二度目の投擲で縄の先端の三本爪は回廊の木板に食い付いた。
確かめるように数度鉤付き縄を引いたのち、彼女はその端をエデンに向かって差し出した。
「エデン、今度は先に行きなよ! もし落っこちちゃったら、あたしが受け止めてあげる!」
微笑んで言う彼女にうなずきを返し、縄の端を手に取る。
下ってきたときと同じように兌樹の幹に足を掛け、まずは背丈の三倍ほどの高さまで登っていく。
「あ、あと少し……」
木板に開いた穴の縁に手を掛け、身体を回廊の上に押し上げたところで、いつかと同じ橙色が眼前に突き出てくる。
「……う、うわあっ!?」
持ち上げた身体が滑り落ちそうになる寸前、手を取って引き上げてくれたのは、湾曲した橙色の嘴の持ち主であるテポストリだった。
「エ、エデンさん! 大丈夫ですかっ!?」
どうにか落下の危機を免れ、回廊の上に身を投げ出したエデンを前にし、テポストリは取り乱したように言う。
「うん、なんとか。……ありがとう、テポ」
「い、いえ!! またぼくが——」
身を起こし、消沈するテポストリに向かって左右に首を振る。
気を落とすことはないと改めて声を掛けようとしたところで、何か違和感のようなものを覚える。
「テポ、どうして……」
「よっと!!」
口を開こうとした瞬間、回廊の上に勢いよく乗り上がってきたのはマグメルだ。
座り込んだテポストリを見て取るや、彼女は開口一番迷いなく問い掛けた。
「あれ? テポちゃんなんでここにいるの?」
「ど、どうしてかって尋ねられたらそれは——」
答えにくそうにうつむき、言葉を詰まらせる。
だがわずかな間を置いて思い定めたように顔を上げると、テポストリは意を決したように二人を見据えて口を開いた。
「——それは……ぼくがお二人の監視役だからです」
「え……」
「黙っていてごめんなさいっ!!」
思わず息をのむエデンに向かって勢いよく頭を下げ、テポストリは身を縮めて言葉を続ける。
「ぼくは長からお二人の傅役を言い付かっていますが、同時に監視の役目を任されているんです。ぼくは……お二人がぼくたちにとって良くない存在ではないかを見極めなければなりません。……だから、ごめんなさい。ずっと……そういう目で見てました」
「なんで気付いたの? あたしたちが出てったって」
マグメルが変わらずの平然とした様子で尋ねる。
まだ食事の機会が残っていることは予想できていたため、客間を出る際に背嚢を詰めて布団を膨らませてあった。
眠ってしまったと判断したなら、無理やり揺り起こしてまで食事を勧めることはないだろうと考えたからだ。
「はい、それはですね……」
言ってマグメルを見上げると、テポストリはもごもごと口ごもるように言った。
「……マグメルさんがおとなしく眠っていたので、ちょっと変だなって……」
「あたし!?」
テポストリのそんな言葉を受け、マグメルはすっとんきょうな声を上げる。
ぼうぜんと彼女を見詰めるうち、不意に込み上げてくるおかしさにエデンは思わず笑みをこぼす。
「あはは——」
きっちりと隠蔽工作をしたことが逆にあだになったという事実に加え、想像もしていなかった露見の理由に笑いをこらえ切れない。
声を抑えて笑う様をぽかんと口を開けて眺めていたテポストリも、少し遅れて「ふふふ」と声を漏らして笑い始める。
「なにそれ!?」
一人マグメルだけが、不満げに頬を膨らませていた。
ひとしきり笑ったのち、テポストリは羽先で涙を拭う。
そして一転して表情を引き締めると、エデンとマグメルを見据えて告げた。
「安心してください。長にはお二人が危険な人じゃないって伝えていますし、今夜のことも知らせるつもりもありません。ぼくの胸の内にしまっておきます」
言いながら両の翼で自身の胸を覆う。
「どうして……?」
「エデンさん、楽しそうにごはんを食べてくれました。優しい目で卵たちを見てくれました。亡くなった衛士さまを悲しそうな目で見てくれました。——マグメルさん、たくさん笑ってくれました。とってもすてきな音を聴かせてくれました」
頬を緩めてエデンとマグメルを見詰め、続けて断言するようにテポストリは言う。
「たった一日と少しの出来事でしたけど、お二人が信じていい人なんだってぼくにはわかったんです!」
「もしも自分たちが良くないことを考えていたら……?」
「そ、そうだったら困っちゃいますっ!」
恐る恐る尋ねてみると、テポストリは困惑をあらわにして取り乱すように声を上げる。
「もしもエデンさんたちが悪い人だったら、それはぼくの目が曇っていたってことになります。長に謝らないといけませんね」
苦笑交じりに言ったのち、小さく肩を落として続けた。
「でも——本当は長も旅の人たちを疑うようなまねはしたくないと思うんです。この森に暮らす嘴人は昔から旅人たちを手厚く迎え入れることを善しとしてきたそうです。ずっとずっと昔は他の集落や別の種との交流や交易も盛んだったって聞いています。でも……ここ最近はちょっと風向きが変わっちゃいましたから。昔を知らないぼくですけど、この大樹が旅をする人たちが翼を休める憩いの場所になってくれたらいいなって——そう思います」
常に穏やかな笑みをたたえた、いつでも物柔らかな嘴人——それがテポストリに対して抱いていた印象だった。
人当たりがよく控えめで、ありていな言い方をすればくみしやすい相手だと判じていた部分がまったくないとは言い切れない。
だがそんな見立てが、完全な見込み違いであったことを思い知らされたような気がした。
「ありがとう、テポ。信じてくれてうれしい。絶対に——君の気持ちと、嘴人のみんなを裏切らないって約束する」
「はい!!」
正面から見据えて言えば、テポストリは普段通りの調子で答える。
「あたしも! テポちゃんだいすき——!!」
マグメルが伸し掛かるように抱き付くと、テポストリは彼女の背に翼で触れる。
「信じています。すてきな音を出せる人——」
次いでテポストリは目を細めてエデンを見詰め、この上なく穏やかなく声音で呟いた。
「——翼はないけど、ぼくには見えます。エデンさん、あなたのまとう優しい風が」




