第四百五話 相 聞 (そうもん) Ⅱ
「りゅ、りゅう——!?」「えええー!?」
あまりの衝撃にエデンは思わず声を上げ、マグメルも目を見張って驚きをあらわにする。
「し、静かに……!!」
慌てて人さし指で沈黙を促すシオンに、慌てて自らの口を両手で覆った。
「竜とは沼の鱗人たちの信仰の対象です。集落は水の流れる巨大な岩窟の中にありますが、そこには常に鑿と槌の音が響いています。彫刻の技術には瞠目するものがあり、中でも地母神像と呼ばれる壁面彫刻は見事のひと言です。鱗人たちは事あるごとに女神であり母である竜を模した像の下に集まり、こう口にしています。竜を取り戻せ、その名を汚す者を許すな——と」
「竜が……鱗人の信じる神さま……」
「次はそちらの話を聞かせてください」
呟くエデンを静かに見据え、シオンはどこか含み有りげな口ぶりで言った。
エデンはマグメルと顔を見合わせたのち、自身らが樹上集落で得た知見を語る。
そして沼の鱗人たちと同じく、東の嘴人たちの間にも竜の概念があることを伝えた。
「——そう、ですか」
シオンは口元に指先を添え、深く考え込むようなそぶりを見せる。
「それってさ、おんなじりゅうなの? それともべつのやつなの?」
「異なるものであったなら、おそらくは——」
小首をかしげて言うマグメルに、深く考え込みながら呟くように答える。
何かに思い至ったように顔を上げた彼女は、エデンとマグメルを見据えて問いを投げた。
「嘴人たちの思い描く竜はどのような姿をしていますか?」
「す、姿——」
竜という概念を知ったのは今日のことだ。
衛士長トラトラツィニリストリの口からその名を知るに至ったが、物々しい雰囲気の中でそれ以上を尋ねることはできずにいた。
姿どころか鱗人たちの崇拝するそれ同様に、信仰の対象であるのかどうかも今のところはわからない。
だがトラトラツィニリストリが導きと語るからには、彼らにとって大切な存在であることは想像できる。
それを伝えると、シオンは「そうですか」と短く答えて懐から愛用の手帳を取り出した。
「これが鱗人たちの崇める竜の姿です」
その一頁を開きながら口にする。
「こ、これが……」
息をのみ、彼女の手の中に視線を落とす。
マグメルもカナンも、身を乗り出すようにして手帳を見下ろしていた。
「はい、地母神像を見て私が描いたものです」
「ええと……どっちが上——なのかな?」
「素描ですので見づらい点もあるかもしれません」
頭をひねるエデンに、答えてシオンは指先で自らの描いた絵を指し示す。
「こちらが頭部で——こちらが尾です」
至って真剣な表情で説明をする彼女だったが、どう絵を見ればよいのかがいまいちわからない。
細く長い、豆か勾玉を思わせる楕円の身体から、針のように伸びるのが手足だろうか。
頭部らしき部位に打たれた二つの点が眼球であるなら、その下部に引かれた三日月状の曲線が口なのだろう。
額を合わせ無言でシオンの描いた絵を見下ろしていた三人だったが、小さなせき払いののち、話をまとめるように口を開いたのはカナンだった。
「ともあれ、沼の鱗人たちが竜に対して抱く尊崇の念は極めて深い。そして竜は大樹に暮らす東の嘴人にとっても重要な価値を有する——ということか」
「はい」
シオンは同意し、手帳を閉じる。
「二つの竜が両種の不和の原因であることは間違いないでしょう。先日の私は信仰の違いから人は武力を行使するものと言いました。ですが——もしもその違いがまったく別のものを指すのではなく、同じものの有する別々の側面を指すのであれば、事態は想像以上に複雑です」
そう言って彼女は、手にした手帳の表紙と裏表紙を交互に示してみせる。
「表と裏を同時に見ることはできませんから」
「じゃ、じゃあ……その、竜を取り戻すっていうのは……」
「簡単なことだ」
思わず口を突いて出る言葉に、動じることなく答えたのはカナンだ。
「力をもって我意を通せばいい。相手を完全に打ち負かし、こう言うのだ。
——竜は我らのものである、とな」
「そ、そんなこと——!!」
勢いあまって詰め寄るエデンに対し、彼女はあくまで平然と口にした。
「今日のことだ。巡回に出ていた兵たちと東の嘴人たちの間で小競り合いがあったらしい。昨日の小戦もあって、集落全体に徹底的な交戦を望む気運が高まりつつあるのがわかる。兵たちやそれを率いる者たちの士気もますますもって高揚している。膨れ上がった憤懣はいつ爆発してもおかしくはないだろう」
「エデンさん、私たちはもうこの場所にとどまるべきではありません。今すぐ旅具を回収し、その足で東へ進路を取るのが賢明でしょう」
続けるシオンに、カナンも同意を示す。
「私も彼女の案に賛成だ。これ以上いさかい合う二つの種に関わっている場合ではない。沼の鱗人を率いる長ネフリティスと三人の兵士長、あるいは君の話してくれた——なにがしという衛士長、機を見誤ればこの者たちを敵に回す恐れも出てくるだろう。一度誓いを立てた以上、私には何があろうとも君の身を守り通す義務がある。ここはどうかシオンの提案を入れてほしい」
真剣なまなざしで見据える彼女の気迫にのまれ、エデンは言葉を失ってしまう。
何か言おうと口を開くが、喉の奥からはかすれた音が出るだけで意味を成さない。
乾きを覚える口内を湿らせるように唾を飲み込み、変わらず自身を見据え続けるカナンに視線を返す。
「迷っている時間はありません。エデンさん、決めるのは貴方です」
重ねて決断を促すように言うシオンを見やったのち、助けを求めるように見下ろしたのはマグメルだ。
緊迫した空気の中にあって普段通りの笑みをたたえた彼女は、これまたいつもと変わらぬ口調で言い放った。
「あたしはエデンがこうだって思うようにすればいいと思うな。シオンもカナンもきっとおんなじだよ。エデンが決めたことなら、やれやれって顔するけどいっしょに来てくれるんだから。知らないことがあるならシオンが教えてくれるし、カナンも守ってくれるって言ってる。あたしもどこまでだってついてってあげるからさ、だからエデンはエデンの思うようにすればいいんだよ。でしょ——?」
再び微笑むマグメルを前にシオンは力なく嘆息し、カナンはあきれ交じりに肩をすくめる。
二人の反応を自らの言葉に対する賛意と捉えたのか、マグメルは得意げに胸を張ってみせた。
「ね?」
三人の少女に順に視線を送ったのち、唇を引き結んで奥歯を噛み締め、祈りを捧げでもするかのように固く瞑目する。
自身と少女たちの身を危険にさらさないためには、シオンとカナンの言う通り一刻も早くこの地を去るべきだということはわかっている。
加えてこれ以上の長居によって何かが変わる、何かを変えられるわけなどないことも十分に承知している。
シオンのように一日と半分という短い時間の中で竜の情報を調べ出しもできなければ、カナンのように武勇をもって交流を深めることもできない。
ここで提案を退けることに意味はなく、ただただ近く起こるであろう大規模な争いに巻き込まれる可能性を高めるだけの話だ。
ならばなぜ素直に勧めに応じようと思えないのだろうか。
自分自身に問い掛ける中でふと脳裏に浮かんだのは、大樹の上で目にした一つの光景だった。
甲斐甲斐しく卵の世話をする女たち——そんな彼女らを目を細めて見詰めるテポストリの姿が、胸に深く刻み付けられている。
数十秒の黙考を経て、静かに顔を上げる。
「一日だけ……」
呟いて三人を順に見やり、意を決して告げる。
「……あと一日だけ、出発を待ってほしいんだ」
カナンとシオンが歓待されていると知り、差し当っての不安は解消された。
もちろん不穏な行動を見せれば対応は急変するだろうが、彼女ら二人がそんな不手際を仕出かすわけもない。
わずか一日で何がわかるのかと思う部分もあったが、許されるのであれば東の嘴人たちにとって竜がどのような存在であるかを知っておきたい。
「いいでしょう。私はそれで結構です」
答えを半ば予想していたかのように淡々と言うシオンに、カナンとマグメルも首肯をもって同意を示す。
「みんな……あ、ありが——」
緊張を緩めて感謝の言葉を口にしかけたところを遮り、シオンは釘を刺しでもするかのように続けた。
「繰り返しになりますが、己の領分を弁え、知ること以上の成果を求めないでください」
無言でうなずくエデンをじっと見据えると、周囲に注意を払うようなそぶりを見せた彼女は皆に向かって小声で告げる。
「それほど遠くない場所に気配を感じます。では明晩——またこの場所で」
シオンの言葉を受けて視線を交し合ったのち、四人は再会を誓い合う言葉を口にすることなく、再び二手に分かれる運びとなった。




