第四十話 悲 願 (ひがん) Ⅱ
店主の面前まで歩み寄り、懐から金貨の詰まった袋を取り出す。
袋の中身を一枚ずつ机の上に積み上げ始めると、商人は書き物をする手を止め、その様をじっと上目で眺め続けた。
戦く手を叱咤しながら過不足なく三十枚積み上げたところで、小さく息を吐いて商人を見下ろす。
「金貨で三十枚あるよ。これで彼女を——買いたいんだ。首輪を外して、自由にしてあげてほしい」
震え交じりではあったが、毅然として放たれた言葉を受け、商人は積み上がった山から無言で金貨を一枚つまみ上げる。
検分するように表面や重さを確かめ、続けて掌で包んで温めると、納得したように手にしていた一枚を山に戻した。
「つまりはお客ってことでしょう」
「全部確かめて。あるはずだから——三十枚」
焦りといら立ちとを懸命に抑え込みながら、再度念を押すように言う。
「見ればわかりますよ、そんなこと。何年この仕事をやっていると思っておいでですか」
机の上に肘を立てて組んだ掌の上に顎を乗せ、商人は視線だけで少年を見上げて淡々と言う。
たるんだ唇はあざけるようにゆがんでおり、放たれる言葉にも嘲笑の色が多分に含まれていた。
「だ、だったら……!!」
「店内ではお静かにお願いしますよ」
机に手をついて勢い込む少年に対し、商人はまるで人ごとといった口ぶりで言う。
「どこの誰から聞いたのか知りませんがね、金貨三十枚で売るなんていつ言いました? 値札でも付いてたって仰るなら話は別ですがね」
「そ……それは——」
打ち付けの言葉に、思わず声を詰まらせる。
金貨で三十枚、確かにローカは自らの値段がその金額だと口にしたはずだ。
「——金貨で三十枚って……そう——聞いて……」
消え入りそうな声で言ってローカを見やるが、彼女の顔に映るのはいつも通りの冷たく無感情な色だ。
何か間違っていたのだろうか、勘違いをしていたのだろうか。
にわかに混乱を来し始めた少年が頭の中で自問を繰り返していると、商人は心底あきれたような口調で言った。
「貴方が仰ってるのは買値の話でしょう? いかにも私はあれを買うのにきっかり金貨三十枚出しましたよ。ですがね、どこの世界に三十枚で買った品を三十枚で売る愚か者がいるんですか。賤斂貴出——安く買い、高く売って利益を出す。これ、商売の道理でしょう」
商人は少年とローカを交互に見やり、口元をゆがめて続ける。
「仲良くしてもらったことにはそこそこ感謝してるんですよ、これでも。毎日けなげに食事を運んでいただいたようで——おかげさまで餌代が浮いて節約になりましたよ」
ぼうぜん自失で頭の中を真っ白にする少年に向かって、商人はさらに追い打ちをかける。
餌——と彼は言った。
それを耳にした瞬間、胸の内に何か言い知れぬいら立ちのようなものがふつふつと沸き上がってくる。
抱いたことのない感情に肌があわ立ち、身体が熱を帯びてくるが、その感情をどう扱ってよいのかがわからない。
「私の早合点でしたね。ご自身で仰る通り、やはり貴方はお客ではないようだ。おわかりいただけたならどうぞお引き取りを」
「た、足りないならもっと出すよ……!! あとどれくらいあれば——!!」
慇懃無礼な態度で扉を指し示す商人にあらがうように、机の上に身を乗り出して言った。
金貨三十枚ではローカを買えない。
それが事実だったとしても、商人の言うまま唯々諾々と従えない理由がある。
応援してくれた仲間たち、そして自由を奪われ品物として扱われている彼女自身のためにも、ここで引くわけにはいかない。
一筋の望みにかけるより他に、取り得る手段はなかった。
「ずいぶんとご執心のようですねえ、この呪われた娘に」
「呪……われた——?」
引き下がるそぶりを見せないと見るや、商人は薄ら笑いを浮かべながら言う。
得体の知れない不穏な響きを持った言葉を繰り返しながらローカを見詰めるが、彼女は変わらず無表情をたたえたままだった。
「見ての通り、人足としてはなんの役にも立たない出来損ないです。荷物も持てない、牽けない、運べない——おまけにいわく付きとくれば、買い手が付かないのもむべなるかなです。付き合いのある売り手がどうしてもって言うんでね、私が買い取ってやったんですよ。働かせてみても案の定役に立ちませんし、見せ物にするにはわずかばかり外連味が足りません。どうしてやろうかと考えあぐねていたところだったんです」
商人はいまいましそうに吐き捨てると、後方の柱にくくり付けられていた縄を引いた。
首輪につながる縄を急に引き寄せられたことで、彼女は「う」と小さなうめき声を漏らして前のめりになる。
「な——何を……!!」
抗議の声を上げる少年に取り合うそぶりを見せようともしない商人の顔には、不機嫌そうに口元をゆがめていた先ほどまでとは打って変わった底気味の悪い微笑みが張り付いていた。
「それがですよ、買い手に当てが付いたんですよ。際物下手物なんでもござれ、金払いも悪くないとうわさの大物がいるって聞きましてね。というわけで、残念ですが貴方の出る幕はありません。言い忘れていましたがね、商売には忘れちゃならない鉄則がもう一つありまして。——欲しい相手に売る、これが一番大事なんですよ。早く欲しい、どうしても欲しい、いくら出しても欲しい、何がなんでも欲しい。そんな相手を見つけたら、後はこっちの思う壺です。どうやら貴方もその口のようですが……少しばかり遅かったみたいですね」
先ほどよりもぞんざいなしぐさでもって商人は扉を指し示す。
強く歯噛みしながら見下ろすが、その顔にはこれ以上問答を交わす気はないという表情がありありと浮かんでいた。