第四百三話 過 客 (かかく)
「貴公らはこの樹上集落を訪れた数年ぶりの旅人だ」
自身らによく似た姿の少女を探して旅をしていると改めて語るエデンに、衛士長トラトラツィニリストリは左右に首を振って応じた。
聞けば衛士たちは樹上集落の周囲だけでなく、大森林全域を空から巡回しているらしい。
トラトラツィニリストリは集落近くでも、そこから遠く離れた大森林の中でも、少女を見掛けたことはないと語る。
森を抜けて東の大集落へ向かう予定だと伝えると、彼は「かの地であればあるいは」とその道行きの妥当性を認めてくれた。
礼を伝えたのち、樹上集落に招き入れられたときから気になっていたことを尋ねてみる。
それはこの東の森に暮らす嘴人にとって、「旅」や「旅人」がどういった意味を持つのか——ということだ。
テポストリが、長チャルチウィトルが、目の前の衛士長トラトラツィニリストリが、事あるごとに口にするその言葉こそが東の嘴人たちにとって大切な——譲れないものであることは、おぼろげながらも理解していたからだ。
「人は常に旅の途上にその身を置く」
問い掛けに対し、トラトラツィニリストリは嘴人たちが旅に対して抱く思いを教えてくれる。
「私たちはたまさか今世に漂着した彷徨人にすぎない。生まれたその瞬間から、死すべき定めを背負った無宿の身だ。肉の身体を持て余しながら歩む旅を生と呼び、自由なる翼をもって無窮の空を翔ける旅を死と呼ぶ。それだけの違いだ」
そこまで語ると、翼を持ち上げたトラトラツィニリストリは指先で空中に円を描いてみせた。
「生も死も、等しく輪廻の環を結ぶ」
わずかにゆがんだ楕円を描く指先を見詰め、その軌跡に先ほど目にしたばかりの何かの形状を重ねる。
「その形って——」
「もしかしてたまご……?」
呟くマグメルに無言のうなずきを送ると、トラトラツィニリストリは再び言葉を続けた。
「私たち嘴人は卵より生まれる。誰に教えられたわけでもなく、自らの嘴で内側から殻を破って生まれてくるのだ。私たちは己の内に神を有する。『生きよ』と語る神の声に導かれるまま生まれ、そして声と一つになる頃に生を終える。形ある卵があってそこに命が宿るのか、宿るべき命がふさわしき卵を欲するのかは知る由もない。だが不自由な生を終え、死という名の自由に飽いた者たちが再び今世に生まれ出ずる際にその身を宿す器——それが卵だ」
孵卵室とテポストリの呼んだ乾樹の樹洞、そこで甲斐甲斐しく卵の世話をする嘴人の女たちの姿を思い出す。
央樹の綿を詰めた布の上に並んだ卵の全てが、彼の言うように誕生を待つ命の器なのだと考えれば、改めてその神秘に驚かされる。
央樹とそれを囲む樹々の中で生も死も受け入れる嘴人たちの命の在り方は、いつか自由市場の河辺でラバンの語ってくれた大河の話とよく似ている気がした。
「私たちにとって卵は揺籃であり棺、未来と過去を閉じ込んだ器だ。皆で死者を送るように、大樹を栖とする全員で育むもの。卵も雛も親の所有物などではなく、生と死の狭間で翼を休める旅人そのものなのだから」
「みんなで——」
繰り返すエデンに、補足するように言い添えたのはテポストリだ。
「はい。先ほど見ていただいたように、この樹の上で生まれた卵は一か所に集められて、みんなでお世話をするんです。温める人、ごはんを作る人、お布団を作る人、それから——危険から守るために戦ってくれる人……みんなで協力して、嘴人たちは——ぼくらはこうして空を飛べています」
感じ入るように語るテポストリの言葉に、トラトラツィニリストリは静かにうなずいてみせた。
「……でも」
ふと頭をよぎる疑問に、思わず問いを発する。
「寂しくはないのかな? 自分が誰で……誰の子供かもわからなかったりしたら——」
「皆が大樹の子だ!!」「大樹こそが皆の親だ!!」
同時に答えたのはテポストリでも衛士長トラトラツィニリストリでもなく、金銀二人の嘴人たちだった。
「この集落に暮らす以上は——」
そこまでは珍しく異口同音に言ったかと思えば、「誰もが兄であり弟だ!!」「誰もが弟であり兄だ!!」と別々に言い放つ。
「兄とは弟を守るもの!!」「弟は兄に守られるもの!!」
続けて同時に言い放ったかと思うと、二人は顔を見合わせて言い争いを始めてしまう。
「俺が兄でお前が弟だ!」「お前が弟で俺が兄だ!」
「兄、弟!!」「弟、兄!!」
指先と嘴を付き合わせながら言い合う両者の間に、「どちらでもいいだろう」と断じて割り入ったのはトラトラツィニリストリだ。
「私たち皆、央樹と八樹によって生かされる兄弟姉妹だ。後だ先だと順序を付けることになんの意味がある。弱き雛の間は皆で世話を焼き、老いてはその新たな旅立ちを見送る——それでは不服か?」
仲裁を受けた金銀二人の嘴人は同時に勢いよく首を振り、示し合わせでもしたかのように声をそろえて言った。
「我ら皆、兄弟姉妹!!」
巽樹の食堂に集っていた他の嘴人たちもなぜか二人に唱和し始め、気付けば辺りは威勢のよい「兄弟!」「姉妹!」の声で満たされる。
唱和はトラトラツィニリストリが聞えよがしに咳払いをするまで続いた。
皆それぞれ歓談に戻るところを認めると、トラトラツィニリストリはエデンとマグメルを見据えて口を開く。
「人が旅をするのではない。どんな世であろうと人を連れて行くのは旅のほうだ。旅の終わりは——」
そう言って彼は再び指先で円を描き「——旅の始まりでもある」と続ける。
「思いも寄らない場所にその終着点を見もすれば、決まって同じ場所に行き着くもまた旅だ。貴公が旅を続けていれば、いつかいずこかで必ず探し人と再会を果たすこともできよう」
語るトラトラツィニリストリに、いつか聞いた嘴人の友人の別れ際の言葉を思い出す。
「……うん。そうだといいな」
エデンの返答に対して静かにうなずくと、トラトラツィニリストリは耳慣れない言葉を口にした。
「——の導きのあらんことを」
「え? 今……」
初めて聞いたからだろうか、その放った言葉を聞き逃す。
改めて聞き返すエデンに対し、トラトラツィニリストリの口は今一度ゆっくりとその言葉を紡ぎ出した。
傍らを見れば、マグメルも「聞いたことない」とばかりに左右に首を振っていた。
「りゅ——う……? それって——」
耳なじみのない言葉の響きを確かめるように呟き、その意味を尋ねようとした瞬間、不意にトラトラツィニリストリが樹洞の出入り口に視線を向けた。
「どうした、客人殿らの前だぞ」
声が放たれた先に目を向ければ、そこには慌ただしい足つきで樹洞に姿を現した一人の嘴人の姿がある。
鮮明な赤色の羽毛に身を包んだ人物は、先ほどの御魂送りの儀式で、それ以前にも鱗人たちとの戦の場で目にした衛士の一人だった。
「え、衛士長——! 聞いてください!! 今しがた、哨戒の、任に——当たって、いた——ところ……」
よほど急いできたのか、その息遣いはひどく荒い。
呼吸を整えるので精いっぱいなのだろう、息を切らした赤色の嘴人はなかなか本題に入ることができずにいた。
「トレトル、落ち着いてから話せ」
「……は、はい——」
赤色の嘴人はあえぎ声で応じ、肩で息を整える。
直後、赤色を押しのけるようにして樹洞に現れたのは、彼とよく似たもう一人の嘴人だ。
葬儀の場でも戦の場でも常に赤色の嘴人の傍らにあった、青色の羽毛で身を覆った嘴人だった。
「失礼します、衛士長殿」
落ち着いて話そうとはしているが、赤色の嘴人と同様に息が上がっているのが見て取れる。
肩と胸とを激しく上下させつつも、青色の嘴人は努めて冷静な口ぶりで言葉を続けた。
「哨戒の任に当たっていたところ、鱗人の兵どもの間に動きが見られました」
「そ、そうなんです……!! 何かよからぬことを企んでるんじゃないかと——!!」
「了解した」
赤青二人の報告を受けた衛士長トラトラツィニリストリは、短く答えて後方に控える二人の嘴人に視線を送る。
金色と銀色——コスティクとイスタクの二人は声をそろえて「は!!」と応じ、そのまま勢いよく樹洞から飛び去っていった。
「トレトル、セクトリ。貴公らは休息を」
次いで肩で息をする赤青の嘴人に対して告げ、エデンたち二人に向き直る。
「すまない、客人殿。私は行かねばならん。話の続きはまたいずれ」
言って低頭したトラトラツィニリストリは、金銀二人の後を追うようにしてその場を後にした。
「だ、大丈夫ですっ! 衛士さまたちは、みんなみんなすっごく強いんです! だからなんの心配も要りませんよ!!」
「……うん、そう——だよね」
引き立てるように言うテポストリに笑みをもって応じたものの、胸を騒がせるのは鱗人たちの元に向かったカナンとシオンの安否だ。
夜になればわかることとはいえ、二人が無事であることを願わずにはいられなかった。




