第四百話 畏 縮 (いしゅく)
「衛士長さま——」
回廊の上に舞い降りた嘴人を見詰め、身を硬くしたテポストリが恐れ入るように呟く。
その視線の先にある嘴人は趾に握っていた投槍を翼に持ち替え、エデンたちの元へと歩み寄った。
「貴公らが長の客人か」
検分するかのようにエデンとマグメルを交互に見下ろすと、嘴人は自らの名を名乗る。
「トラトラツィニリストリだ。長より衛士長の任を預かっている」
嘴人——衛士長トラトラツィニリストリの細身ながらも鍛え抜かれた身体は、彼がその肩書きの通り戦いに身を置く者であることを雄弁に物語っていた。
他の嘴人たちと同じく身を包むのは飛行の妨げにならない貫頭衣だが、長のまとうそれに引けを取らない見事な刺繍は、衛士たちを率いる立場にあることの証だろうか。
青い皮膚の裸出した頭部は、後方に向かって反り立つ細く長い冠羽と相まって精強な印象を放つ。
赤みを帯びた褐色の翼は力強く、深紅の瞳から放たれる鋭い眼光はまさしく戦士のそれだった。
「とらとら——」
「じ、自分は……」
長く複雑な名前を繰り返すマグメルを横目に、エデンも名を名乗る。
続けて本人に代わってマグメルを紹介し、簡単に来訪の目的を告げた。
「了解した」
衛士長トラトラツィニリストリは短く答えると、エデンが腰に差した剣に視線を落とす。
「貴公は剣士か?」
「け、剣士……!? そういうわけじゃ——」
「いずれ手合わせを願いたいものだ」
突然のことに言葉を詰まらせるエデンに短く告げると、次いでトラトラツィニリストリはテポストリに視線を投げる。
「客人殿らを頼んだぞ」
言葉少なに用件を伝えたトラトラツィニリストリは、投槍を趾に持ち替えてその場を飛び去っていった。
「は、はいっ……!!」
その背に向かってテポストリが応諾の声を上げる。
去っていくトラトラツィニリストリを背筋を伸ばして見送っていたテポストリは、彼の姿が見えなくなったところで気が抜けたように身体を弛緩させた。
「はあ……」
「テポちゃん、だいじょうぶ?」
翼を握っていた手で身体を支えるマグメルに、テポストリは力ない笑みを浮かべる。
「衛士長さまの前で緊張しちゃいまして……」
「こわいの? さっきの、とら——なんとかちゃん」
「こ、怖いだなんて——! そ、そんなことはなくて……!」
尋ねるマグメルに困惑をあらわに応じ、テポストリは太く長い嘴を翼でさすりながら続ける。
「衛士長さまはこの樹上集落で一番強い戦士なんです。今までもずっと央樹とぼくらのために戦っていて……だから怖いなんて嘴が裂けても言えないです! だから、そうじゃなくて——」
言いづらそうに口ごもってしまったテポストリは、悄然と肩を落として消え入りそうな声で呟いた。
「ぼくは——戦えないので」
「テポ……」
その抱いているであろう感情は、少なからず理解できるような気がした。
強い力を持つ者たちを前にし、自らの非力さと不甲斐なさを痛感せざるを得ない状況には思うところがある。
もちろん戦うことが全てではないことはわかっているつもりだ。
それぞれにそれぞれの生きる意味があり、誰もが異なる手段で己の生き方を示していることも知っている。
だが人を襲う異種の襲来に際し、あるいは嘴人たちと鱗人たちのような争いの中では、戦う力を持たないということは奪われる側に身を置かねばならないことを意味している。
大事に思う他者の危機になすすべを持たないということがどれほど無念であるかは、他でもない自身が一番よく知っている。
一歩ずつではあるが、皆のおかげで求める強さに近づくことができている気がする。
それでも剣士かと問われたときに即答できないのは、いまだ迷いの内にあることの何よりの証左だ。
掛ける言葉が見つからずに見詰めることしかできないエデンに代わり、その煩悶を一笑に付しでもするかのように口を開いたのはマグメルだった。
「そんなのいいの! テポちゃんはやさしくて、こんなふうにあたしたちによくしてくれてるでしょ?」
黒色の身体に両腕を回すと、マグメルはそこだけ白い羽毛に覆われた顔に頬を寄せる。
「それがテポちゃんのいいところで、それが強いところ!! だからそれでいいの!!」
「マグメルさん……」
組み付く彼女に対して感極まったような声で漏らし、テポストリは涙ぐみながらこぼしていた。
「……ありがとうございます。うれしいです」
その後は一度離樹にある自室まで戻り、テポストリの運んでくれた食事を口にする。
最初に用意されたのは珍しく果実ではなく、玉黍に莧の実を加えた粥だった。
ほのかに温かい粥は薄味ではあるものの、口に運べば濃厚なとろみに包まれたうまみを感じる。
粥に次いで当然のように提供される果実を食べ終えると、テポストリは皆の残した種を一所に集め始めた。
「後で畑に行くんです」
集めたそれをどうするのかと尋ねるエデンに、テポストリはそう答える。
エデンが自分も一緒に行っていいかと申し出ると、テポストリは心底嬉しそうに答えて微笑んでみせた。
「それじゃあ、一緒に行きましょうか」
食事を終えたエデンとマグメルは、テポストリの案内に従って央樹への道を歩んでいた。
離樹を囲む回廊から森の中心に向かって延びるつり橋を渡り、そこから央樹の幹の周りを巡りながら上昇していく回廊を進む。
恐ろしいは恐ろしいが、一晩を樹上で過ごしたことで心持ち高所での生活に適応し始めている部分もあった。
昨日よりもわずかばかり確かな足取りで螺旋回廊を上っていたエデンは、ふと央樹の幹から伸びる枝に実がなっているところを目に留める。
回廊を進む足を止めて楕円形をした褐色の果実を眺めるエデンに気付くと、マグメルも立ち止まって果実に視線を投げた。
「エデン、あれが食べたいの?」
からかうような口調で言う彼女に対し、振り返ったテポストリは「ふふふ」と含み笑いをこぼす。
「あれは食べられないですよ。食べられるかもしれないですけど——食べてもあんまりおいしくないです」
「そうなの? 食べないなら、どうするの?」
尋ねるマグメルに向き直ると、テポストリは翼で自らの身を包む貫頭衣の胸元を得意げな表情を浮かべてつまみ上げた。
「こんなに大きいんですけど、央樹は棉の樹なんです。実からは綿が取れるので、それを糸にして——こうして服にするんですよ。棉の繊維はすっごく軽いから飛ぶのに邪魔にならないし、水も吸収せずにはじいてくれるので、ぼくら嘴人が着るには最適なんです!」
そう言ってテポストリは、貫頭衣の裾を翻すようにひと回りしてみせる。
「それだけじゃありません。先ほど見てもらった乾樹の孵卵室、そこで卵をくるむのに使われているのも央樹から取れる綿を詰めた布です。ぼくら東の嘴人は、孵るのも還るのも——」
そこでいったん言葉を切り、「——あ、生まれるときも死ぬときも、っていう意味です」と言い添える。
「そう、生も死もいつでも央樹と一緒なんです」
感じ入るように言うと、テポストリは螺旋回廊から眼下をその翼で指し示した。
「見てください」
幹に手を添えつつ、エデンはその視線の先を見下ろす。
大森林の中央にそびえ立つ央樹を囲んだ八柱の大樹——その各個の樹頭にエデンが認めたのは、大樹とは異なる植物の共生する姿だった。
「あれは——」
「畑です。枝の上に積もった枯葉やそこに生えた苔は、永い永い時間をかけて土に変わっていきます。ぼくらはそこに植物を植えさせてもらって、実った果実をいただいています。ぼくらの食べるものは全て大樹からの賜りもの——東の嘴人は央樹と八樹によって養われているんです」
感謝と畏敬とを感じさせる口ぶりで言うと、テポストリは抱えていた籠を趾に持ち替える。
「ちょっと待っててくださいね」
言うや回廊の端から迷いなく踏み切って中空に身を投げ出したテポストリは、広げた翼を打って風に乗る。
その軽やかに宙を舞う姿に、テポストリもまた空を飛ぶ翼を持った嘴人であることを思い知らされる。
恐々ながら眼下を見下ろして見たのは、八樹の枝上に下り立ったテポストリが、畑の管理をしているらしい赤い頭の嘴人に種を収めた籠を託すところだ。
赤頭の嘴人は受け取った籠の中から一粒ずつ取り出した種を、行きつ戻りつしながら丁寧に枝上の畑にまき付けていた。




